貯金とかダイエットとか、そういった、主体者になんらかの我慢、節制を要求することについての方法の紹介をするサイトなどを閲覧すると、往々にして、「自分へのご褒美」「人生へのご褒美」といったものを控えろという趣旨の指摘があります。そういった指摘への賛否はともかく、あんまり極端なものはまずいということは言えるかと思います。
私も凡人ですので、自分へのご褒美、人生へのご褒美という考えを否定はしませんが、といってそれも程度の問題ではあるかと思います。たとえば、拙ブログで何かとネタにしている人物である佐藤忠志氏は、彼を最終的に破滅に追い込んだ1億円(自宅売却収益)での高級車購入について、彼が人生で最後にまともに受けることができたと思われる取材(死の1年強前)で次のように語っていました。さすがに次はないと考えていたんですかね。
>人生最後の愛車に
さすがに世の中、これといった収入の当てが今後ないのに(多分ですが、佐藤氏は年金もろくにかけていなかったのではないか)自宅を売った金で1億円の車を買う人はそうそうはいないのかもしれませんが、これは私の勝手な想像であるということはお断りしておきましたうえで書かせていただきますと、彼がこの車を購入した背景には、前にも指摘しましたように、酒の飲みすぎを理由とする前頭葉の委縮などがあり、まともな判断ができない状態だったという可能性があるかと思いますが、あとたぶん彼の頭の中に「自分の人生へのご褒美」という意味合いもあったのではないかと想像します。
佐藤忠志氏は、あるいは酒の飲みすぎで認知症あるいは感情の制御がさらに難しくなっていたのかもしれないさすがに普通の人間では、いくらなんでもそこまではできないという人が大多数でしょうが、悪銭身に付かずとか宝くじなどに当たった人間がまともじゃない散財をしたりする背景にも、どうもこの過剰な「自分へのご褒美」「人生へのご褒美」という心理があるのではないかと思います。似たような記事はたくさん書いていますが、下の記事をご参照ください。
私の考えを補強してくれる記事があった(宝くじほか棚ボタの金は、必ずしも人間を幸福にしない)その記事で引用させていただいた記述
>いままで地味だった分、残りの人生を派手に謳歌したい。このお金をもっと増やしたい
という心理は、まさに過剰な自分へのご褒美、人生へのご褒美ではないか。私が何回もご紹介している夕張の暴力団夫婦(めでたく夫婦そろって同日に死刑執行)も、彼(女)らの犯罪後の極端な浪費(1億3800万円を1か月で使い果たしたらしい。そもそも札幌でデートクラブを開きたいと考えていたそうですが、そっちの方に金は使ったんですかね?)も、やっぱり危ない橋を渡ったことによる自分へのご褒美という意味合いもあったのではないか。まったくないということもないでしょう。そして私の母の知人である、歌手崩れの男に貢いで全財産を失い生活保護受給者になり死亡した女性も、やはり似たような心理がなかったか。
金をためられる人、財産を残せる人は、けっきょく金にシビアなのだと思う(追記あり)この女性の場合、夫に抑圧されてきた、子どももいないし、自分の人生を生きたいとかいう思いが、極端な方向へ走ったのではないか。なお佐藤忠志氏も、子どもはいません。
繰り返しますが、私も凡人ですので、「自分へのご褒美」「人生へのご褒美」とかそういう考えを否定はしません。私が年に数回海外旅行に出かけるのも、つまりは「自分へのご褒美」です。前に行った英国とアイルランドの旅などは、勤続なんとか年でもらった休暇を利用したものであり、これは「人生のご褒美」に近いものもあるかもしれない。
アイルランド・英国紀行(2015年9月)(1)ただ自分の人生ですからね。人間いつ死ぬかわからないし、自分の意志で自殺するというのは、やはりあまり褒められたものではないし、また自分に絶望したから自殺したというパターンが多いでしょうからね。佐藤忠志氏の死など、ほとんど緩慢な自殺のたぐいでしょうが、おそらく死だいぶ以前の段階で彼は精神疾患になっていたと思いますが、自分(人生)へのご褒美がゆきすぎてああなったのでは、お話にもならないにもほどがあるというものです。
ただ佐藤氏の場合、けっきょく奥さんが去ったのが、彼の絶望の最終的な引き金になったわけで、彼の頭の中には、「自分(の人生)へのご褒美」というものはあっても、自分と奥さんへのご褒美という概念はまるでなかった、あるいは無視していたのでしょうね。もっと早い段階で奥さんが去ったほうがむしろ結果論としては佐藤氏にはよかったくらいでしょうが、しかし現実はそうはならなかったし、奥さんから逃げられた佐藤氏は、その隙間を酒と煙草で埋めることしかできずに、そして孤独死したわけです。これもねえ、ここまで最悪の事態になる前にカウンセラーほかが介入できればよかったのかもしれませんが、おそらく佐藤氏はある時点で人の話を聞くような状況でもなかったでしょうしね。なるべくして最後の日を迎えたとしても、私たちとしては、「佐藤氏のようには絶対なりたくない」ということを心に刻むつけていかないといかないと思います。それが、佐藤氏がこの世に残した最大の遺産だったのでしょう。