C-C-Bのドラム兼ヴォーカルであった笠浩二が亡くなったことによせて、このような記事を執筆しました。
やはり糖尿病は恐ろしい病気だと思う(笠浩二の死に寄せて)(追記あり)それで、その記事に関連する記事を、bogus-simotukareさんが執筆してくださいました。
糖尿病は怖い病気だが「共存」は「困難でも不可能ではない」と思う(富永一朗、北尾光司の死に寄せて)
で、題名にもありますように、その記事では、元横綱双羽黒である北尾光司が、重度の糖尿病に苦しんだ末亡くなったことが紹介されています。bogus-simotukareさんもご紹介されていますが、その闘病についてを北尾のWikipediaから紹介したいと思います。注釈の番号は削除します(以下同じ)。
>2019年4月の『週刊新潮』の報道によると糖尿病の悪化により2010年代前半から寝たきりに近い状態になり、トイレに行くこともままならなくなり排泄に家族の介助を必要としていたとのこと。死去の6年前には両足首に褥瘡ができ、医師から両足首の切断を勧められたと伝わる。死去する5年前から入院生活を始め、2018年秋から人工透析を始めたという。この頃には糖尿病が末期の段階に進行して目はほとんど見えなくなり、意識も朦朧として娘を認識できなくなっていたという。
同年6月28日放送のTBS系「爆報!THE フライデー」には北尾の夫人が出演し、これまで公には知られることの無かった闘病生活について述懐した。
(中略)
しかし、2003年9月に立浪部屋と和解した直後に、北尾の闘病生活が始まった。日曜大工をしていて右足首に負った擦り傷が何か月たっても治らず、医師の治療を受けても化膿が進んだという。電気ストーブで足が焦げているのに気付かないほど感覚が麻痺、右足を庇って負担がかかった左足にも褥瘡が出来るという形で化膿が広がり、引退後の暴飲暴食が原因した『重度の糖尿病』と診断された。両脚膝下の切断が必要と医師に告げられたが、「切断後に生きる保障も再び歩くことが出来る保障も出来ない」と言われたことや「横綱になった足」であることから夫婦は切断を拒否。そして、別の病院を探したが入院を拒否されたという。その後、夫人は勤務医の仕事を辞めて北尾の自宅介護を続けていたが、椎間板ヘルニアを発症し一人娘の助けなしに介護を続けられなくなってしまった。このため一人娘に進学を断念させることにもなってしまった。こういったことから北尾は「俺、生きてていいのか」と何度も自殺未遂を繰り返し、夫人は24時間夫から目が離せない日々を過ごすこととなった。そして遂には腎機能が衰え、最後の入院となった。北尾はこの入院中(死の2年前)視力も記憶も失っていく中で「自分は骨にならないと家には帰れないから、撮っておけ」とビデオで自分の姿を撮影するよう求めており、そのビデオの内容も番組中で放送された。
引退後の暴飲暴食がたたったとはあります。それで、北尾に関するさまざまな(よろしくない)エピソードをまとめてみますと・・・
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度重なるトラブルしかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と音を上げる癖があった[5]。さらに口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、6代立浪も北尾に対してではなく稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった。黒姫山はこれに関して「幕下までは技術面に関しては手取り足取り教えますけど、関取になってからは口を出すこともない。ましてや私生活の面は、稽古が終われば僕たち親方衆は自宅へ帰ってしまいますから分かりませんからね。そのうち気が付けば、師匠が北尾に対して、腫れ物に触るかのような接し方をするようになっていて、僕らからも何も言えなくなってしまった」と後年語っている。そして、椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は、6代立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、6代立浪は罰として一年間の便所掃除を命じた。さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、6代立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが、高砂部屋への出稽古通いや隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという。
(中略)
師匠らと衝突、突然の廃業1987年12月27日、6代立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった。
発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と6代立浪に言いつけたことだった。6代立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという。立浪は「絶対に許せない」「(「もう双羽黒は土俵に上がらないという結論になるのかという質問に)そういう風になると思う」と述べ怒りをあらわにした。一方、12月30日夜のニュースステーションでは、「立浪親方夫人を殴ったというのは事実無根」という双羽黒の談話を伝えた。後年の北尾の著書では「ちゃんこが美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、日頃から親方に再三指導するよう求めてきた。その日もその事を言ったら全く取り合ってもらえず、果てには逆に若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と主張している。
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北尾に対する酷評北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした輪島(第54代横綱)にも同様の特別待遇が見られた。38歳でのプロレス転向を「無謀」であるとすら言われていたが、輪島本人は横綱のプライドを捨てて努力をしており、大相撲ファンからも同情されて温かい目で見守られた。しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用すると認識されていただけに、相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。
大相撲廃業前から稽古嫌いで有名だったが、プロレス転向後もアメリカではみっちり鍛えたものの、帰国後は練習を嫌がりたびたびトラブルを起こしたほどだった。
(中略)
北尾は受け身の技術に難があったため、特定の技をかけられることを極度に嫌い、これが技を受けない姿勢に拍車をかけた。そしてある試合中、ブレーンバスターをかけられた際に恐怖心から無理な体勢で着地して腰を強打、負傷する。このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛い」「体調が良くない」など理由をつけては練習をサボるようになり、また地方巡業に帯同しながらも決まっていた試合を当日になって突然欠場を申し入れたりするなど、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。
その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と激しく対立すると、北尾のあまりに怠慢な態度に業を煮やした長州が発した「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習しない奴は試合で使わない」という言葉に対し、北尾は「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く」「怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度を過ぎた暴言、さらには民族差別発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。
北尾が辞める際には当時社長だった坂口征二が同席しての記者会見が開かれ、
デビューは新日本プロレスだが実際には所属選手ではなく専属フリー契約扱い(「アームズ」という芸能事務所に在籍)だった。 そのために北尾は新日本の社員として扱われる他の所属選手と違って、個別にフロントとの交渉を行っていた。 待遇面に関しても新人選手ではなく所属選手と同等、もしくはそれ以上の扱いを受けていた。など数々の内部事情が明らかにされた。それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。長州は後にインタビュー記事で、「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなってしまった。
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SWS移籍(前略)
この試合では北尾は試合当初から不満げな表情を浮かべ、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対しロックアップすらせず、目潰しのポーズをとって威嚇する俗にいう「シュート」を仕掛けた。この目に余る態度にテンタは激高、逆に北尾をレスリングの技術で投げ飛ばし優勢に立つ。その後、攻めあぐねた北尾は実際に目潰し(未遂)を行い(サミングではなく人差し指と中指を突き出した非常に危険な行為。テンタが避けたため未遂に終わる)試合は完全に進行不能となる。そのまま両者ともに臨戦ポーズをとりながらにらみ合いの硬直状態が続くが、注意へ近づいたレフェリーに北尾がローキックを浴びせ直後に反則負けが宣告された。
北尾は反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言。さらに観客に向かって「お前らこんなもの見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼するという北尾の姿はプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している。
その後は「北尾事件」としてプロレス誌だけでなく一般週刊誌もスキャンダラスに報じ、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し、田中八郎社長に辞表を提出(田中は慰留した)。ザ・グレート・カブキが「北尾の復帰戦はオレがやってやるよ!」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視し、ついに北尾を解雇する決断を下した。この決定には北尾も「仕方がありません」と受け入れざるを得なかった。
北尾の没後、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している。それによると、試合直後の控室で一連の言動を注意した現場監督の田中社長夫人に対し、北尾が罵声を浴びせた上に椅子を投げつける暴挙に及んだという。椅子が直撃していれば怪我では済まなかったこの行為に、船木は例の発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境にレスラーへの態度を一変させてしまったという。また現場に居合わせた谷津嘉章も同様の発言をしている。また北尾は、マッチメイクを行ったカブキに不満をぶちまけていたという。この件については当時は報じられていなかった。
なお、藤原喜明の証言によると、SWSサイドでは北尾を一旦解雇した後、プロフェッショナルレスリング藤原組のリングで復帰させるプランを考えており、田中社長同席のもと、藤原が北尾と面談したが、北尾が挨拶もそこそこにノートパソコンを取り出し「私はこう言う感じで(試合を)やりたい」と自分の売り出し方をプレゼンテーションし始めたので、呆れた藤原がその場で帰ってしまい藤原組での復帰は無くなったという。
新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は難しい情勢であり、事実上の永久追放」と見る関係者も多かった。
このあとは、さすがに北尾も、ある程度反省したのか年齢とともにそれなりの社会常識を身につけてきたのか、ある程度態度ほかも改善されたようですが、こんなことをやらかしていたら、それはとても世の中やっていけません。そして彼は、そういう人生を送ってしまったわけです。
で、北尾には、次のようなエピソードも報じられています。やはりWikipediaより。
>退任後、宴席で同席した相撲関係者が尋ねたところ、岐阜県関市でナイフのデザイナーをしていると答えたという。
>2019年4月に『週刊新潮』の取材に応じた娘の述懐によると、娘が物心つく頃には既に角界やプロレス・格闘技界とは完全に関係を断っており、角界時代からの趣味であるエアガンやナイフ、日本刀などの蒐集に傾注しながら、ナイフマガジンなどの趣味雑誌への寄稿やパソコン関係の在宅ワークなど、一般世間からも距離を置いた事業によって生計を立てていたという。
つまり北尾という人は、そのような才能がある人だということです。彼は、いわゆる学歴がある人間ではない。中卒です。中学卒業と同時に立浪部屋に入門しています。事実Wikipediaにも、
>力士にしては冗舌で、はきはきと答え、仕入れた栄養学などの知識も得意げに披歴した。一方、批判を受けると雄弁に主義主張を展開する一面があった。
>当時としては珍しくパソコンが趣味だったこともあって「新人類」という異名が付けられていた。ファミコンにのめりこみ、赤ずきんチャチャを愛読するなど、角界の常識では測れない多趣味の持ち主であった。
とあります。おそらくですが、北尾は物事を学ぶ能力はかなり優秀だったのではないか。彼の知能指数はたぶん高かったのではないかと思います。が、彼には、おそらく発達障害があって、他人とうまく付き合うという能力がきわめて低かったのでしょう。彼に対してなんとかしたほうがいいと説得した人数知れずでしょうが、理由や過程はともかく、彼はそういった他人の期待を徹底的に裏切ってしまったわけです。
正直大相撲引退の引き金になった例のちゃんこの事件だって、真相はわからない部分があるし、北尾に全く責任がないということはないとしても、言われるほど彼が悪かったわけではないという可能性も十分ありえます。が、ほかがあまりによろしくなさ過ぎて、とてもそんな話が通用する次元ではなかった。それは彼の不徳のいたすところというやつで仕方ないことでしょうが、でも発達障害とかそういうことが極端になると、ここまでひどい事態になることすらあるということなのでしょう。それもまた困ったことです。
また、これは必ずしも北尾だけが悪いということでもないのでしょうが、彼が若手の際に、師匠らがきわめて彼に甘い態度で接したということも、後のことを考えればきわめてよろしくなかったといわざるを得なかったのでしょう。どうも北尾は、そういった特段の配慮でさらに勘違いしてしまったところがありそうです。どうもこれ、北京五輪直前に、
>酒に酔って俳優・渡瀬恒彦の運転手に暴行、後遺症が残る怪我を負わせたが、金メダル候補ということもあり内密に示談した
というお話にもならない不祥事をしでかして、まさに特段の配慮で示談で済んだにもかかわらず、どうも自分は治外法権の人間であるというような勘違いをして(ご当人は否定するのでしょうが、まあそういうことでしょう)、指導者になったら性犯罪までしてしまった内柴正人に近いものがなかったか。内柴も、なんらかの発達障害、ことによったら精神障害かもしれませんが、そういうものがあるのではないかと感じます。なお上の引用は、内柴のWikipediaより。この件の詳細は、Wikipedia「内柴事件」を参照してください。私もこの件で、以前記事を書いたことがあります。
それはちょっと違うんじゃないのと思う。また、JOCも全柔連も、内柴を注意しなかったろその記事でも指摘しましたように、内柴の国士舘と全日本の双方での師匠でもある斉藤仁(故人)も、内柴の出身校である国士舘大学や所属先だった旭化成の関係者だって、内柴がよろしくない人間であることはよく理解していたはずだし、彼を知る人間やその周囲では公然だったはず。とくに内柴が女子柔道の指導者になるということは、「それは絶対まずい」と考えた関係者もいたはず(相当な数いたのでは?)。が、おそらくですが、内柴に本気で注意した人はいなかったのでしょう。内柴は柔道家としてはまさに最高の選手だったし、まさに実績が、彼に注意することを妨げたのでしょう。そしてそれは、北尾も同じようなものでしょう。
たいていの人間は、北尾や内柴ほど馬鹿なことはしないのですが、そしてそういう馬鹿なことをしたらそれ相応の報いがあるのですが、どうもある時点まで北尾も内柴も、本気で後悔するという報いがなかったのでしょう。それらが、彼らの非常識極まりない行動や性犯罪にまで至ってしまった大きな要因だと思います。北尾は、長きにわたって自分の姿を消すことで社会生活を送る羽目になったし、内柴は実刑判決を受けて服役までしました。しかも判決(懲役5年)は、求刑通りのものであり、つまりは裁判官もこの事件をいろいろな意味できわめてよろしくないものであると認識したということです。大相撲の場合、師匠の親方が満足な注意をできなかったら、あとはタニマチとかそうでなければほかの親方らくらいしか注意できる人間はいないのでしょうが、それもできない相談だったのでしょう。スポーツ選手としての実績とその人間性には何の関係もありませんが、あまりにひどい人間が指導者になると、お話にもならない事態にもなりかねない。北尾は、晩年少し指導をした際にはかなりまともなものだったようですが、そのあたり彼なりに「あれはまずかった」という思いもあったのでしょう。内柴はどうか。彼も指導はしているようですが。
この記事は、bogus-simotukareさんの記事からヒントをいただきました。感謝を申し上げます。