とくにバレーボールとか高校バレーとかに興味があるわけでもないのですが、先月(1月7日)たまたまテレビで、春の高校バレーの女子準決勝で、宮城県の古川学園と熊本県の熊本信愛女学院の試合をやっていました(結果は古川の勝ち)。それで私が「おや」と思ったのが、途中のタイムアウトの時です。
熊本側が、選手みんなで話をしているのですが、この時高校生の女の子たちが「・・・・けん、・・・・するけん」とか、やたら「けん」を使っていたわけです。つまりものすごく方言が強かったのです。
正直高校生の女の子から、こういう強い九州弁を聞かされると、すごく迫力があった(苦笑)のですが(ましてやバレーボールの選手は大柄だしね)、それはともかく。
この時私が思ったのが、まさに日本では、方言というのは、バイリンガル化しているのではないかということです。
たぶん彼女らも、事前取材とか試合後のインタビュー、もしくは東京などに遠征あるいは単なる私用であっても来た際は、おそらくそんなに強い熊本弁だかの方言を使うということはないはずです。あるいは地元でも、私のように地元外の人間と話すときは、ほぼ共通語(標準語?)で話をするはず。が、試合中ではもちろんそんなことにかまってはいられませんから、自然にネイティヴの話し方である方言になったということでしょう。
実は私も、「なるほどねえ」と思う経験をしたことがあります。ずいぶん昔、山形県酒田市に行ったことがあり、その時どういうきっかけで話をしたのか覚えていませんが(たぶんコンビニあたりで水か何かを買ったのだと思います)、地元の中年女性と話をしていて、私がなんてこともなく「酒田市って大火事がありましたよね。あなたも被災されたのですか」とか言ったら、それまで普通の共通語(標準語?)で話をしていた彼女が、とつぜんすごい方言になったのです。その方言を私はさっぱり理解できずにほんと唖然としてしまいました。私はそれ以前は、今時の日本の方言なんて、どこのだって容易に理解できるなどと、何の論拠もなく考えていたのですが、そんな考えがまったくの間違いであることを身をもって体験したわけです。
で、私が興味深く感じたのは、方言の強さもさることながら、彼女の話し方が急に方言になったことです。つまり過去の火事を思い出して、「頭の中のスイッチが入った」とでもういう状態になったのでしょう。つまり脳の中の言語表現をつかさどる機能の部分が、方言にふれたということなのでしょう。
そういう風に考えていくと、昨今の日本人は、日本語を話すに際して、共通語(標準語?)と方言を使い分ける能力があるのではないかと思うわけです。前にこんな記事を書きました。
興味深い記事を読んで、北アイルランドの強い方言を思い出すその記事で引用した2013年のコラムを。元の記事は、2015年の発表です。
>コラム
余録:なぜ人は方言をしゃべるのか
831日前
なぜ人は方言をしゃべるのか。「共通言語教育で20世紀中に方言は消える」と言われたこともあったそうだが、東北弁も名古屋弁も九州弁も絶滅しそうにない。関西弁に至っては21世紀になった今もお笑い番組などで隆盛を極めている▲では、自閉症の子が方言をしゃべらないのはなぜか。関係者の間で長らく「謎」とされていたことを松本敏治弘前大教授らが調査した。たしかに自閉症などの発達障害児は方言をしゃべらない確率が高い、ということが立証された▲(1)方言をしゃべっているのだが、発達障害特有の発音や音韻が方言らしく聞こえない(2)方言の音韻や音調の特徴が障害児の情報処理能力を超えている(3)「?んだなし」「?だがや」「?ばい」など方言独特の終助詞を理解できない(4)メディアの影響、など諸説ある▲松本教授らが推すのは社会的機能不全説だ。方言には、仲間への帰属意識、他集団との差異化を表す機能、緊張を緩和する機能などがあり、社会性にハンディのある発達障害児はこうした方言の機能を理解し使うことが苦手というのだ▲年齢による濃淡もあり、一般的には中学生のころが最も方言を使うという。家族より同世代の仲間への帰属意識が旺盛になる時期だ。商売や町内会の活動を通して地域との関係が濃密になる35歳前後も多いらしい▲ひきこもり、孤独死、児童虐待の要因に社会的孤立があることを思うと、方言はなんとも貴重な存在だ。かつて標準語を身につけさせるため、先生が方言を話す子の首に罰として「方言札」を下げた地域もあったという。方言の魅力はもっと評価されるべきである。
2013年04月21日 00時12分
確かに私も、知る限りでは、自閉症者が方言を話す姿は、記憶にありません。それで、次のような記事を見つけました。
>日本人は「バイリンガル化」 方言と共通語使い分け
2015年5月30日 12:27
60年間で日本人は「バイリンガル化」し、時と場合に応じて方言と共通語を使い分けるようになった――。国立国語研究所(東京都立川市)などは、山形県鶴岡市の住民を対象に20年に1度実施している「鶴岡調査」の4回目の結果から、こんな報告をまとめた。
調査は日本人の言葉の使い方の変化をみるのが目的。他の方言の影響が小さいとみられた鶴岡弁に注目し、1950年に約500人の鶴岡市民を対象に第1回調査を実施。第2回は71年、第3回は91年で、2011年の第4回では約800人が答えた。
ネコの絵を見せて「これは何ですか」と口頭で尋ねる質問。第1回では63%が共通語「ネコ」、37%が鶴岡弁「ネゴ」と答えたのに対し、第4回では共通語が97%。鶴岡弁は3%に激減した。
しかし、同じ絵を見せて「鶴岡弁らしく発音して」と、第4回で初めて聞いたところ、88%が鶴岡弁で発音でき、鶴岡弁を話す力は、多くの人に健在だと分かった。
また、第4回では、家族と話す時に半数以上が鶴岡弁を使い、共通語を使うのは10%未満だった一方、鶴岡への旅行者とは60%近くが共通語で話すと回答。第1回では、共通語で旅行者と話すのは40%に満たなかったことから、相手や場面に応じて、方言と共通語を使い分ける傾向が強まっているとした。
国立国語研究所の研究員時代から調査に携わってきた専修大講師の阿部貴人さんは「社会が成熟して、方言は誇らしく守るべきものという地位を獲得した」と指摘。その上で「各種メディアの発達などで共通語も話すようになり、相手や場面、状況に適したものを使えるようになった」と分析している。
社会の変化のスピードが速くなっているとして、次の第5回調査は、10年後の2021年ごろに実施したい考えだ。〔共同〕
古い記事ですが、そうとなると、私の考えも、そんなに的外れでもなさそうですね。上の阿部氏の指摘によれば、
>社会が成熟して、方言は誇らしく守るべきものという地位を獲得した
ということなのでしょう。そうであるなら、それは大変いいことだと思います。かつて丸谷才一が「日本語のために」なんて本の中で方言をやたらよろしくないものと論じたことがありましたが、そういった意見はけっきょく世間の支持を得るにいたらなかったということなのでしょう。丸谷のことについては、言語学者の田中克彦も相当批判していたはず(田中のWikipediaにも、その一端が記されています)。
そのあたりはともかくとして、そうとなると、私が地元の人と話をして、「ああ、もう方言なんかないんだな」と考えたらそれは早計ということになりそうです。電車の中などでの地元の人たち同士の会話などはまた違うのでしょう。私もいろいろなところに行きますので、またそういったことにも注意したいと思います。