以前図書館でこのような本を目にしたので借りて読んでみました。
1988年にあったプロ野球のパシフィック・リーグにおける2件の球団経営権譲渡(南海電鉄→ダイエー、阪急電鉄→オリックス)と、同じ年にあった川崎球場でのロッテオリオンズと近鉄バッファローズ(球団名はどちらも1988年当時のもの)との試合(優勝決定のダブルヘッダーの試合)について記した本です。著者は、元読売新聞の記者で、読売巨人軍の代表も務めていた人物で、いわばバリバリのプロ野球関係者です。だから、セントラルの話は書けませんが、パシフィックなら取材もできるし書くことができるという側面もあるのでしょう。
1980年代飛ぶ鳥を落とす勢いといって過言でなかったダイエーは、プロ野球団を持ちたいと考えまして、地元の川崎市と折り合いが悪く(川崎球場の改装・改築にも川崎市はいい顔をしませんでした)慢性的な赤字に苦しんでいたロッテ球団からの譲渡を視野に入れます。ところが(だいぶ話をはしょっちゃいます)これまた赤字がひどく、また関西国際空港開港によって難波の再開発が目前に迫り、大阪スタヂアム(大阪球場)の取り壊しが近づいてきて(そして新しい球場の建設が用地のめども立たない)球団経営の先行きがまるで成り立たなくなっていた南海電鉄が所有する南海ホークスの、長きにわたって名物オーナーともみなされていた川勝傳が1988年に亡くなり、いよいよ譲渡の動きが本格化、9月に正式に譲渡が発表されます。そして上に記したロッテ・オリオンズと近鉄バッファローズのダブルヘッダーが行われた10月19日に、阪急電鉄が阪急ブレーブスをオリエントリース(翌89年から「オリックス」)に譲渡することが発表され、これには世間をあっと言わせたわけです。南海ホークスの譲渡は、ほぼ想定内といってよかったのですが、阪急ブレーブスについては、「まさか」というのが世間のたいていの見方でした。これらについて、新聞記者で読売ジャイアンツの代表でもあった著者が取材、執筆したわけです。
それで、こちらの本を図書館から借りてみました。
著者の佐野正幸氏(俳優とは別人。当然の話ですが、念のため)は、パ・リーグ大好き人間として(一部では)有名なライターでしたが、2016年に亡くなってしまいました。その時は追悼記事を書かせていただきました。
あるスポーツライターの死を追悼する氏の本を書評したことが2回あり、正直非常に生意気な書評で、氏のサイトに書評した旨のコメントを入れさせていただいたのも、今からすればやりすぎだったかなと思うのですが、それはともかく、私のような素人の書いたものにもきっちり対応してくださるいいライターさんだったと思います。
追憶のスタジアム 1988年10月19日の川崎球場はすごかった上の近鉄バッファローズ消滅の本の中で、私が印象的だった部分がこちら。語っているのは小林哲也氏という人物で、彼は近鉄球団最後の球団社長でした。のちに社長、現在近鉄グループホールディングスの代表取締役会長ですので、近鉄球団がその後も存続していれば、たぶんオーナー職に就任していたであろうと考えられます。
>阪急はえらいですよ。球団を売るなんて批判必至なのに、それをあえてやった。もう鉄道会社が球団を持つ時代じゃないかもしれない(p.127)
これは小林氏が大阪ドーム開場時に総合責任者として赴任して、当時近鉄百貨店に勤務していた佐野氏が大阪に派遣されていた際に小林氏と一緒に仕事をしていた時期の発言ということで、すると大阪ドームが開場したのが1997年のことですから、そのころの発言なんですかね。なお佐野氏のWikipediaによれば、佐野氏が近鉄百貨店を退職したのが1998年とのことなので、少なくともそれ以前の発言でしょう。とすると、近鉄が球団を切り捨てたのが2004年ですから、だいたいその6年~8年前くらいの発言でしょうか。小林氏は当時すでにゆくゆくは社長も視野に入るくらいの近鉄の最高幹部になるであろう人物とみなされていたのでしょうから、その発言はそれ相応に重みのあるものだったということになります。多分ですが、この時点で彼は、将来的には、近鉄は球団経営を断念せざるを得ないという認識でいたのではないかと思います。
それで、長きにわたって経営がよろしくなく、野球チームの譲渡、身売りの話が絶えなかった南海電鉄に対し、阪急電鉄の方は、そういう話は聞かれませんでした。が、1988年のお盆明けの土曜日(たぶん8月20日)、宮古島で三和銀行(当時)を中心とする「三縁会」なる関西の事業者をメンバーとする会が懇親・懇談をしていまして、オリエントリース(当時。翌年「オリックス」に社名変更)の参加者が、翌年からの社名変更に関して、なかなか新社名が世間に広まらないということを述べて、
>いっそのことプロ野球の球団でも買おうか。そんな話まで出ている(p.103)
と述べました。この非公式発言を聞き逃さなかった阪急社員が、これはチャンスだと考えます。この会議に参加していた三和銀行のメンバーも、阪急電鉄が条件しだいで阪急ブレーブスの売却を考えているという情報を得ていました(p.106)。阪急側としては、やはり赤字の宝塚歌劇団とプロ野球の球団を2つかかえるのも負担となっていました。阪急としては、球団を手放す条件として、
>
①プロ野球から阪急が単独で撤退することは避けたい。
②リーグを問わず、他球団が身売りした同じ年に手放したい。
③関西空港新設とからみ、難波再開発を迫られる南海が撤退する可能性がある。同じ年内に何回に続けば目立たず最善である(以下略)
というものを考えていました。(p.106~107)
この後の詳細については、実際に本を読んでいただければいいとして、①と②なんて、いかにも日本的な態度だなあと思いますが、つまりは阪急電鉄としては、自分たちだけが「悪者」にはなりたくないということなのでしょう。そういうことを、前出の小林氏は、
>えらい
といったはず。で、最終的に、10月19日、川崎球場で優勝決定のダブルヘッダーの試合が行われた日に、身売りが記者会見で発表されました。最初の非公式の発言から、契約締結が済んで身売りが発表されるまで、たったの2ヶ月です。すさまじい迅速さですが、つまりは阪急としては、ほんとうに早急の売却を考えていたのでしょう。
さすがにプロの(元)新聞記者が書いた本だけあり、良く取材できているし面白い本です。前にも同じことを書きましたが、ほんとプロ野球球団の本拠地移転を伴う身売りというのは、単なるスポーツだけの話でなく、都市計画、行政など実に多方面に問題が広がりますね。大阪球場の閉場・取り壊しは、関西国際空港開港に際しての大阪ばかりでない関西全体の都市計画の大規模な影響を及ぼすものでした。またロッテ球団の川崎から千葉への移転は、千葉市の球場開設を前提とするものでしたし(ダイエーにとって、ロッテも、福岡移転を前提とする購入のありうる対象でした)、それは千葉市における公共交通ほかの都市計画の一環ということになりました。もちろん球場単体の問題でも、建築学的にもいろいろ興味深いものがあります。大阪球場は、悪い工材を用いて突貫工事で建築されたものでしたから、1950年の開場から40年弱ですでに老朽化もひどいものでしたし、球場自体の狭さなども時代にそぐわないものでした。南海ホークスで主に活躍した野村克也と門田博光が、NPBで歴代2位と3位の本塁打数を誇れたのも、大阪球場の狭さが一因だったことは間違いないところです。狭さと老朽化、設備の悪さの問題点については、これは川崎球場もご同様。球場に限らず、だいたい同じ時期に建築・竣工した蔵前国技館は、竣工から30年後の1984年に閉館しました。その後の両国国技館は1984年に完成、40年弱たった現在でも、建て替えの話は出ていません。
いずれにせよ80年代後半から球場も新しいものが建設されて、どんどん設備がよくなっていきました。ダイエーも経営が悪くなり、ソフトバンクに経営を譲ることとなります(2004年)。まさに諸行無常の世界です。これからも、身売り、新陳代謝は進むはず。米国の球場はわりとあっさり壊したりしますが、日本はそうでもない。今後もいろいろ興味深く見守っていこうと思います。