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けっきょくこれらの本を読めば、本多勝一氏の東洋医学の本など根本から崩壊してしまう(由上修三氏の著書)

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このブログで少し力を入れている(?)本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』の批判です。興味のある方は、下の記事もお読みになってください。

けっきょくこれらの本を読めば、本多勝一氏の東洋医学の本など根本から崩壊してしまう(高橋晄正氏の著書) あてにならない人間のデタラメな話を真に受けたり何ら批判しないから、こんな無様で無残な結果になる(本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』)

他にも言及している記事はありますが、この2つの記事からのものですので、現段階この2記事を読んでいただければじゅうぶんです。

で、今回は、たまたま私が読んだ小児科開業医(故人)の本を。1992年の発売で、すでに30年以上前のものです。

予防接種の考え方 (科学全書) 

この本の内容自体も非常に興味深いですが、それはこの記事でのご紹介は省略するとして、この本を読んでいて、非常に参考になる記述がありました。長くなりますが、とても貴重な内容かと思いますので、引用をさせていただきます。なお以下段落については1行空けまして、また冒頭の1字下げは省略します。第9章の「医療とは」の冒頭から。最初の行は、節の見出しです。

医療は科学である

意志は科学によって人びとに奉仕する職業である。病気をなおすとか生命をまもるとかというと大げさになる。本当はそういうことではないのだろう。科学を人に応用して少しでも幸せになってもらえればそれでよいのではないかと、私は思っている。

病気をなおすといっても、ほとんどは勝手に治る。私が専門にしているぜんそくは、どうあがいてもなおせない。それなのに、ある日、あるとき、勝手に治ってしまうことが多いのである。だから、「先生のおかげで」などと言われると、申しわけないような思いになる。

生命についてはなおさらだ。生命は授かるものであり、召される(私は真宗だから、お迎えだが)ものだと思っている。だから寿命は医者なんかの関係ないところで決められるにちがいないし、そのほうがよいと思っている。

科学によって人びとに奉仕するということは、医師の誇りであるとともに、その職分の限界を示している。「病気をなおす」という点についていえば、おまじないでも病気は治る。オビンズル様をなでただけで治る病もある。でもそれは、医師の職分ではない。医師は、科学的な診療にもとづいて、科学的に検証された手段で治療を行うのであるから、「治ればいい」というものではない。患者の症状に対する治療法の選択には科学的必然性がなくてはならないし、その治療法の効果、その限界、そのリスクが科学的に証明されていなければならない。

そういう意味で考えると、漢方、はり、灸による治療法の一部には、医療といえない部分があるのかもしれない。官報には、診断学がなく、効果や副反応を検証する方法論をもっていない。だから、「肝臓病が漢方で治った」という言い方をする場合、「肝臓病」という診断および「治った」という判定は、西洋医学の方法を用いなければならない。まして、「何が何病にどれほど効くか。悪化する率はどうか」という判断は、科学的測定法と統計手法を用いなければ解明できない。はりや灸についても同じことがいえるのである。私は、こういう治療法に興味をもっているし、灸については実験的研究をしたことがあるが、医師の仕事に取り入れるに堪える部分はまだ大きくないと思う。

ところで「科学的に」ということは、「科学的理論に即して」ということではない。もっと簡単に「事実に即して」といってよいであろう。ある治療法が有効だという場合、「理論上そんなことはありえない」と否定するのは非科学的である。問題は有効性が事実か否かということで、有効と立証されれば、それと矛盾する理論は修正を要求されることになる。

こんな当たり前のことを言うのは、第一線で診療していると、「メカニズムを解明できない事実」や「理論上あらわれるべき現象の欠落」やに、しばしば出会うからである。じつは、これこそが新しい事実であって、大事なヒントがそこにあるはずであるが、多くの場合、われわれは見すごしてしまう。それははずかしいことだと思っている。

私たちがインフルエンザ研究のまとめにかかっていたころ、ある大学の講師がこんなことを言った。「先生たちの仕事は、もうひとつぴんとこない。インフルエンザワクチンが効かないことは理論的にわかっている。先生たちの研究の行先は、理論上の当然の帰結なんだから、発見がないような気がする」

こういう考えも、科学的とは言いがたい。理論だけで「わかってしまう」のが、大学人の悪い癖である。理論上当然と思われても実証できなければ、科学的事実でない。もうひとつ、ついでに言わせてもらえば、「インフルエンザワクチンは理論上無効である」という人が実際にどう行動したかということだ。全国の子どもたちが年二回の注射を強制されていることに心を動かさず、超然としているのは科学者の態度であろうか。

科学は、とくに医学は、実践的でなければならない。頭の中のお遊びで終わってはならない。そういうことを若い科学者たちにわかってもらいたいものである。

世の中には、「西洋医学は科学を過信するから恐ろしい」というような意見が多い。たしかに、西洋医学は多くの誤りをおかしてきた。しかし、それは、科学だからではない。逆に、医学がまだ十分に科学になりきっていないからである。科学者としての反省をつねにもちつづけることが、これからの医師に求められるであろう。(p.188~191)

節をすべて引用してしまいました。どうです、この科学的で謙虚な態度。失礼ながら、これと比較したら、本多勝一氏が主張する

ただしこういった説明は、いわゆる近代科学による絶対的証拠があってのことではありません。実は西洋・東洋を問わず、あらゆるクスリのなかで「なぜきくか」が薬理学的にしろ疫学的にしろ明白に解明できている例など、むしろ少ないのです(引用者注記:これほんと?)。医学とは何か、という根源にたちかえれば、要するに病気を治して健康にすることですから、結論として治ればよろしい。「手術は成功したが患者は死んだ」の伝で、いくら立派な理論や証拠があっても、治らぬのでは話にならない。「迷信としての近代科学」としての側面もあります。有名な丸山ワクチンは、ガンにきくかどうかで争われてきたようですが、「科学的」究明よりも臨床的・経験的にきくかどうかがより重要でしょう。(単行本p.261、文庫版p.252~253 文中青字の部分は原文傍点)

なんていう居直り、デタラメ、詭弁など比較の対象にもなりません。もちろん本多氏の方が下の下の下の下の下です。

それにしても、この由上氏の文章は、本多氏や、本多氏がやたら傾倒している東洋医学関係者S氏(≒境信一氏)のほざいているデタラメ与太に対するきわめて強力な反論になっていますね。本多氏のほざく 

迷信としての近代科学

なんていう居直り、あるいはS氏(≒境氏)が主張する

「漢方薬には副作用がない」というヘンな神話がありますね。この”安全神話”をつくったのも西洋医学の側ですよ。もともと「副作用」という概念が漢方にはないのですから。あるとすれば「誤用」であって、病態(証)に合っていれば副作用的なものなどないし、合っていなければその薬の効果が別の形で出てきます。それは漢方薬の誤用ですから、副作用ではない。(単行本p.190)

と、

そういう意味で考えると、漢方、はり、灸による治療法の一部には、医療といえない部分があるのかもしれない。漢方には、診断学がなく、効果や副反応を検証する方法論をもっていない。だから、「肝臓病が漢方で治った」という言い方をする場合、「肝臓病」という診断および「治った」という判定は、西洋医学の方法を用いなければならない。まして、「何が何病にどれほど効くか。悪化する率はどうか」という判断は、科学的測定法と統計手法を用いなければ解明できない。はりや灸についても同じことがいえるのである。私は、こういう治療法に興味をもっているし、灸については実験的研究をしたことがあるが、医師の仕事に取り入れるに堪える部分はまだ大きくないと思う。

世の中には、「西洋医学は科学を過信するから恐ろしい」というような意見が多い。たしかに、西洋医学は多くの誤りをおかしてきた。しかし、それは、科学だからではない。逆に、医学がまだ十分に科学になりきっていないからである。科学者としての反省をつねにもちつづけることが、これからの医師に求められるであろう。

という由上氏の文章、読者の皆様はどちらがまともであり、説得力を感じますかね。医学という人間の生命にかかわる重大なものに関する発言であることを考えれば、本多氏の発言は、きわめて無責任で実によろしくないものであると私は思います。

それにしても、S氏(≒境氏)のようなまともじゃない人間はともかく、なんで本多氏は、こんなめちゃくちゃなことをほざきますかね。本多氏の文章を読んでいると、カルト宗教の信者めいたS氏(≒境氏)への傾倒ぶりですね。そこまでいったらひどいのなら、アムウェイとかのカルトじみた企業に心酔する販売員(ディストリビューター)めいているといって過言でない。

で、これは事実だから書きますが、人間そんなものに入れ込んだらろくなことがありません。で、やっぱりそうなったわけです。由上氏の謙虚さと本多氏とS氏(≒境氏)の噓八百ぶりの違いは何か。けっきょく由上氏がいう。

医師は、科学的な診療にもとづいて、科学的に検証された手段で治療を行うのであるから、「治ればいい」というものではない。患者の症状に対する治療法の選択には科学的必然性がなくてはならないし、その治療法の効果、その限界、そのリスクが科学的に証明されていなければならない。

ということにつきるのではないか。本多氏のたわごとなどお話にもなりません。本多氏は大要「治ればいい」と主張していますが、では本当にその治療のおかげで治ったのかのをどう確認するかというと、統計学の解析を拒否しているのだから、これは検証拒否ということでしょう。まさに疑似科学・詐欺医療ではないか。何とも部xざまで無残な話です。


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