1月1日、バンコクのホテルで寝そべっていたら、突然iPhoneに入れている防災アプリが急に反応しはじめました。なんだなんだと思いみてみると、「令和6年能登半島地震」の発生その他を報じるものでした。日本中幅広く揺れたらしい。私は遠い地でグータラ過ごしていましたが、これは大変なことになったなと思いました。その翌日、羽田空港で「日本航空516便衝突炎上事故」が発生したのには、これまた絶句にもほどがあるというものでした。それで本日は、地震の話を。このような記事が流れました。同趣旨の記事は、いろいろ流れています。
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「自閉症で避難所に行けない」“災害弱者”のケアが課題 輪島市の「福祉避難所」は2か所のみ【news23】
TBSテレビ
2024年1月10日(水) 12:13
避難生活が長引く中、“災害弱者”のケアの必要性が高まっています。自閉症の息子を持つ母親は「団体生活が難しく、避難所に行けない」。ただ、こうした家族らを受け入れる「福祉避難所」は輪島市内で2か所に止まっています。課題が山積する現場から、藤森キャスターが報告します。
福祉避難所が不足…希少な支援施設では「スタッフが1人倒れている」
住民の孤立に加え、対策が必要なのが災害弱者のケアです。
自宅が被災した岩崎香さん(46)と、小学6年の息子・佑輝さん(11)。自閉症の佑輝さんは生活環境の変化に敏感。親の判断で避難所は諦め、一家は崩れかけた自宅で過ごしていました。
岩崎香さん
「飛んだり跳ねたりもするし、大声も出しちゃうし。団体での生活は難しいかなと思ってはいますけど、周りの理解と…みんな大変な時なので(難しい)」
特に配慮が必要な人を受け入れるのが、福祉避難所。障害のある人や高齢者、乳幼児や妊産婦などが対象です。
余震が続く中、自宅での生活に危険を感じた岩崎さん。受け入れ先を探し辿り着いたのが、現在、福祉避難所となっている、障害者のグループホームです。避難後、佑輝さんは少し落ち着きを取り戻したといいます。
岩崎香さん
「比較的おとなしくしてくれているのかなとは思うんですけど、こだわりとかもあって、すぐにはなじんでくれなくて。ご飯とかも好き嫌い、偏食もあるし、お皿が違うだけでも駄目なので。この子なりに頑張っていると思うんですね。慣れない環境なので」
輪島市には福祉避難所が25か所ありますが、現在、受け入れができているのは、この施設を含め2か所だけ。職員や施設そのものが被災しているためで、3か所目が開設されるめどは立っていません。
こちらの女性は当初、障害のある息子たちと通常の避難所に身を寄せましたが、2日後、その避難所を出ました。
母親
「もう一人の子は色んなことに興味があるもので、次から次から触ろうとするんですよね。物をちぎったりとか、そういうことがあるもので、触ったりできないというと、余計にパニックになってしまって。
“障害があるということはわかっているんですけど、しっかり見とらな駄目や”と言われて、それがやっぱり結構ショックで…」
今、親子が避難しているこちらの施設は福祉避難所ではありませんが、自主的に障害のある避難者を受け入れています。しかし、施設側もギリギリの状態です。
支援施設「一互一笑」管理者 藤沢美春さん
「スタッフが1人倒れていますし、1日から不眠不休で、皆さん自分の家をほっておいて来ているので。
ただやっぱり皆さん、使命感ですかね。障害のある方や高齢の方だったり、災害の時にきちんと逃げられる、避難できる場所を、全国で色んな地域で支援してあげてほしいなと思います」
(以下略)
以前こんな記事を書いたことがあります。
緊急事態の際の迅速な避難の重要性を考え、またその困難さをも考える(3月12日19時15分ごろ更新)その記事で引用しましたこちらの記事を再引用します。
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津波迫る中、部屋から出てこなかった次男…元校長が不登校の子どもたちに「居場所」
2022/03/11 07:09
津波が迫る中、ひきこもりだった次男は部屋から出て来なかった。最後まで避難を呼びかけた妻は波に消えた。岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(71)は東日本大震災で2人を失い、息子に向き合ってこなかったことを後悔し、2人の苦しみを知った。自宅を再建するはずだった場所を、ひきこもりや不登校の子どもたちの「居場所」にしようと決めた。(黒山幹太)
災害公営住宅などが立つ陸前高田市の中心部。佐々木さんが、生きづらさを感じる人たちが集える施設を作ろうとしているのは約200平方メートルの所有地だ。「ひきこもりの子どもたちの心が晴れるような場がほしい」。妻・みき子さん(当時57歳)の願いだった。
11年前まで住んでいた自宅跡はここから数百メートル。かさ上げ工事が行われ、今は土の下だ。家族4人の生活に異変が起きたのは、次男・ 仁也じんや さん(当時28歳)が中学2年の時。佐々木さんは教員で、2人の息子は幼い頃から転校が続いた。中学の部活動でテニスに打ち込んでいた仁也さんは転校を嫌がった。「もう学校に行かないからね」。部屋にひきこもるようになった。
佐々木さんは管理職になったばかりで、早朝から深夜まで仕事に追われた。家庭はみき子さんに任せきり。「せめて退職後は子どもと向き合って」と言われていた。2011年3月、市内の小学校校長を務め終えれば、退職だった。「そろそろ息子と」と考えていた。
17メートル超の津波が同市を襲った時、自身は小学校にいて無事だったが、海から約600メートルの自宅には、みき子さんと仁也さん、長男・陽一さん(41)がいた。みき子さんは一緒に避難するよう仁也さんを説得したが、自室にこもったままだった。津波が迫り、陽一さんと隣家の屋根に逃れた後、波にのまれた。別の家の屋根に移った陽一さんに「生きろ」と言葉を残した。佐々木さんが、みき子さんと仁也さんに再会したのは遺体安置所だった。
(後略)
これもねえ、inti-solさんもご指摘のように、
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これは、正解のない問いですね。
もちろん、動かない子どもを置いて逃げるべき、とは思いますけど、親としてそれができない、子どもを捨てて逃げたという罪の意識を背負って生き続けるよりはここで、と考えてしまう人も一定数いるるかもしれません。この方が、そこまで考えていたのかどうかは分かりませんが。
ということになりそうですね。これはまさにケースバイケースということになりますので、個々の事例はいろいろあるでしょうが、そういうことを考える親(特に母親)がいるというのも事実でしょうし、そして子どもとともに遠い世界に去ってしまう人もいるのでしょう。今回の地震では、上のような事例があったかどうか私は情報を入手していませんが、それはたまたまなかったのかもしれませんが、あっても不思議でない。
それで上のような「究極の状況)とまではいわずとも、最初の記事でご紹介したような自閉症者等の避難所生活というのも、大変な苦労ですよね。
さらにこのような記事も。
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「福祉避難所」人手不足で疲弊 存在知らず、車中泊も―障害者ら向け・能登地震
2024年01月14日07時09分
能登半島地震の被害が大きかった石川県内で、障害者やリスクのある高齢者ら特別に配慮が必要な避難者を受け入れる「福祉避難所」が、思うように稼働できていない。「職員も被災し、人手不足が深刻」との声が上がる一方、特別支援学校の児童生徒の家族が存在自体を知らずに車中泊するケースもあり、「周知が足りない」との指摘も出る。
津波の被害を受けた石川県能登町。高齢者施設など5カ所が福祉避難所として指定されているが、実際に稼働しているのは2カ所にとどまる。
その一つ、特別養護老人ホーム「第二長寿園」の施設長、橋本淳さん(71)は「家に住めない方を受け入れているが、ベッド数などの設備や人員から最大10人まで」と語る。家族1人の付き添いも必要で、現在は要配慮者6人を収容する。
働ける職員は通常の半数以下の40人足らず。橋本さんは「20人は自宅が被災して帰れない。宿直室や面会室で寝泊まりしながら対応しており、寝不足で疲れ切っている」と訴える。
「町は開設しているつもりでも、とにかく認知されていない」と話すのは、県内の特別支援学校に勤める女性教諭(54)だ。地震発生後、生徒の安否確認をしたところ、誰も福祉避難所を利用していないことが判明した。「利用していないどころか、そんな場所があることすら知られていなかった」と言う。
中には、わが子に知的障害があると知られたくないため、一般の避難所を避けて自宅にとどまったり、車中泊したりする家庭もあるという。教諭は「障害のある人への理解を進め、啓発や避難訓練を通じて地域に福祉避難所の存在を知ってもらうことが大切だ」と語った。
もちろん精神ばかりでなく人工透析を受けている方も大変です。肉体的な障害と精神的な障害というのは、また障害の次元がちがうので、各々対応していかないと仕方ないので、これまた大変です。そういえば東日本大震災の時は計画停電まであり、その際人工呼吸器を使っている人はどうなるかと大騒ぎになったこともありましたね。幸いその時は何とかなったのかもしれませんが、今回は能登半島に地理的な部分も障壁になりますので、これまた非常に大変にもほどがあるというものです。
こういうこともある程度蓄積されたノウハウがあってこそ的確な対応ができるというものですから、東日本大震災ばかりでなく阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、熊本地震、 北海道胆振東部地震 などのさまざまな地震における災害救助の問題点などが今後にフィードバックされて的確な対応を可能とするものであると考えます。たとえば新潟県中越地震における災害関連死の多さ(死者68名のうち、52名が関連死とのこと)が、その後の地震災害時におけるケアの重大さを認識するきっかけになったのも事実ではあります。もちろん関連死されたかけがえのない命を失った犠牲者の方々にとってはそうばかりも言っていられませんが、ただ遺憾ながら災害関連死についての関心が世間一般に共有されるためには、このようなことが起きないとなかなか難しいということも事実ではあるでしょう。もちろん海外の事例などもありますが、地理的な要因、住宅事情、社会インフラの問題など、日本国内ですらもいろいろ状況が異なるわけで、外国の事例はなかなか日本に当てはめるのが難しいところはあるかと思います。
それにしてもほんと、災害というのは、忘れたころにやってきます。最大限の注意を払っていきたいと思います。
なお「東日本大震災 2011」というカテゴリー名を、この記事より「東日本大震災ほか災害関係」というカテゴリー名へ変更しますことをご報告します。