フランツ・ベッケンバウアーがお亡くなりになりましたね。記事を。
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サッカー 「皇帝」ベッケンバウアーさん死去 旧西ドイツ名選手
2024年1月9日 19時30分
1974年のサッカーワールドカップで当時の西ドイツを優勝に導き「皇帝」と呼ばれた名選手、フランツ・ベッケンバウアーさんが死去しました。78歳でした。
これは、ドイツサッカー連盟が8日、発表しました。
ベッケンバウアーさんは、1974年、当時の西ドイツ代表のキャプテンとして地元開催のサッカーワールドカップに出場してチームを優勝に導き、試合の流れを支配する冷静かつ華麗なプレーで「皇帝」と呼ばれました。
また、1990年のワールドカップイタリア大会では監督として西ドイツ代表を率いて優勝を果たしました。
その後、ベッケンバウアーさんは、2006年のサッカーワールドカップのドイツへの招致活動に先頭に立って取り組みました。
ドイツサッカー連盟によりますと、ベッケンバウアーさんは7日に死去しました。78歳でした。
これを受けてベッケンバウアーさんの死を悼む声が国内外から上がっていて、ドイツのショルツ首相はSNSで「ドイツにとって最も偉大な選手であり、多くの人にとっての『皇帝』だった」と功績を称えました。
また、UEFA=ヨーロッパサッカー連盟も「ヨーロッパで最も偉大な選手の1人が亡くなった。『皇帝』は並外れた選手で、監督としても成功した」とSNSに投稿しました。
フランツ・ベッケンバウアーさんとは
フランツ・ベッケンバウアーさんは、1960年代から1980年代にかけて活躍した当時の西ドイツの名選手です。主にディフェンダーとしてプレーしながら攻撃力も兼ね備え、背筋を伸ばした優雅なプレースタイルと冷静沈着な統率力から「皇帝」と呼ばれました。
1964年に地元のクラブチーム、バイエルンミュンヘンとプロ契約を結び、1966年には20歳で西ドイツ代表としてワールドカップイングランド大会に出場してチームの準優勝に貢献しました。
1970年のメキシコ大会でも中心選手として活躍して3位となり、1974年地元開催となった西ドイツ大会はキャプテンとして卓越したリーダーシップでチームを2回目のワールドカップ優勝に導きました。
また、現役引退後の1984年には西ドイツ代表の監督に就任し、1990年のイタリア大会では接戦を次々とものにして監督としてもワールドカップ優勝を成し遂げました。
その後はバイエルンミュンヘンの会長としてクラブの経営に携わったほか、2006年ワールドカップドイツ大会の大会組織委員会のトップやFIFA=国際サッカー連盟の理事を務めるなど多方面で活動していました。
日本サッカー協会 川淵三郎 相談役「いつも紳士的で優しかった」
フランツ・ベッケンバウアーさんが亡くなったことを受けて、日本サッカー協会の川淵三郎相談役は協会を通じてコメントを出し、2006年のワールドカップでドイツに渡航した際、ゴルフを一緒に楽しんだことが思い出されるとして「ボビー・チャールトン氏に続き偉大なる名選手が亡くなったのは寂しいかぎりだ。『カイザー』のニックネームが示すとおり、いつも紳士的で優しかった。あれほどのスターとお付き合いできたことは、今思えば夢のようだ。ベッケンバウアーさん、安らかにお眠りください」などとしています。
日本サッカー協会 田嶋会長「サッカーの発展に多大なる貢献」
日本サッカー協会の田嶋幸三会長は「長年、憧れ続けていた往年の名選手がいなくなったことが残念でならない。選手として、監督として、FIFA理事として、世界のサッカーの発展に多大なる貢献をされた。ベッケンバウアーさんが安らかな眠りにつかれますよう心よりお祈りします」などとコメントしています。
で、74年の英雄たちも、だいぶお亡くなりになっていることに気づきますね。ヨハン・クライフは、すでに年にお亡くなりになっています。この時は私も記事を書きました。
ヨハン・クライフが亡くなった西ドイツのストライカーであるゲルト・ミュラーは、2021年に亡くなっています。
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「爆撃機」ゲルト・ミュラー氏死去「皇帝」も圧倒したゴールへの執念
[2021年8月15日23時13分]
「爆撃機」と呼ばれた元西ドイツ(当時)代表FWゲルト・ミュラー氏が15日に死去したと、同日にバイエルン・ミュンヘンが発表した。75歳だった。
同氏は同クラブに15年間在籍し、ブンデスリーガ歴代最多となる365ゴールをマーク。代表チームでは72年欧州選手権、74年W杯ではいずれも決勝戦でゴールを奪って、優勝の原動力となった。野性味あふれるプレースタイルも含め、「記録」にも「記憶」にも残る伝説的ストライカーだった。
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Bミュンヘンによると、ミュラー氏は15日の早朝に夫人と娘を残して亡くなったという。死因は明らかにされていない。
偉大な記録の持ち主だった。1964年にBミュンヘン入りし、同クラブで607試合で566ゴールを挙げ、7回の得点王。71-72年のリーグ戦での40得点という数字は、現在Bミュンヘンのエースであるレバンドフスキが20-21年に41得点するまで、半世紀近く破られなかった。その決定力の高さと、どんな体勢からでも泥臭くゴールを奪うことで「デル・ボンバー(爆撃機)」と呼ばれ、相手から恐れられた。
73-74年から欧州チャンピオンズ杯(現在の欧州CL)3連覇を果たし、自国開催だった74年W杯決勝ではオランダから決勝ゴールを奪った。クラブでも代表でも同志で“同部屋のパートナー”“兄弟”と振り返る「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー氏は昨年、「ゴールへの執念は、仲間までも圧倒した」「今後100年間、人々は彼について語り続けると確信している」と話していた。
引退後、一時はアルコール依存症に苦しみながら、元チームメートの支えで克服したとも伝えられ、Bミュンヘンでユース世代のコーチなども務めた。15年にはアルツハイマー病の治療を受けていることが発表されていた。同クラブのCEOであるオリバー・カーン氏は「彼の業績は比類ないもので、Bミュンヘンとドイツサッカー界の偉大な歴史」とその死を悼むとともに、選手としてだけでなく人柄にも敬意を表する声明を発表している。
<ゲルト・ミュラー>
◆生まれ 1945年11月3日、西ドイツ・バイエルン州ネルトニンゲン
◆所属クラブ 地元のクラブでキャリアをスタートし、64年にバイエルン・ミュンヘンに入団。15季プレーした後、米国のクラブに移籍し、82年に現役引退。
◆タイトル 西ドイツ代表では72年欧州選手権、74年W杯で優勝。Bミュンヘンではリーグ優勝4回、欧州チャンピオンズ杯3回。個人ではブンデスリーガで7度の最多得点。70年W杯でも1大会10ゴールを挙げて得点王に輝いた。
◆リトル・ゴール 175センチ、77キロと、ずんぐりとした体形ながら脅威の得点力を見せ、ペナルティーボックス内、至近距離からの「リトル・ゴール」を積み重ねた。いわゆるゴールへの嗅覚が鋭かった。
◆歴代最多得点 Bミュンヘンでは公式戦通算607試合566得点。ドイツ1部リーグ通算427試合365得点。西ドイツ代表では通算62試合68得点。W杯での通算14得点は06年ドイツ大会でブラジル代表FWロナウドに抜かれるまで個人通算最多だった
そしてそのミュラーに決勝で勝負を決する2点目を取られたオランダのゴールキーパーであるヤン・ヨングブルートも、昨年お亡くなりになりました。彼は、キャッチングなどがものすごく秀でていたわけではないのですが、勇敢にゴールを飛び出してスウィーパーのような役割もなすくらい足技がすぐれていたわけで、現在のGKのさきがけのようなスーパーGKだったわけです。ちなみにオランダでは、大会前彼は第3GKくらいの扱いでしたが、レギュラーGKのケガや、クライフの推薦で、ヨングブルートが起用されたとのこと。
日本でも監督を務めたオランダのヴィム・ヤンセンは、22年に亡くなりました。かれもミュラー同様認知症だったとのこと。
ちょうど今年で50年になりますので、選手たちがお亡くなりになるのも仕方ありませんが、ブラジル代表監督だったマリオ・ザガロ氏もお亡くなりになりました。70年大会では優勝を勝ち取り、74年ではオランダに撃破され、3位決定戦にポーランドに敗れ4位でした。西ドイツを率いたヘルムート・シェーン監督は96年に、サッカー史上最高の監督とまで言われるオランダのリヌス・ミケルス監督も、2006年に亡くなっています。
ベッケンバウアー氏やヨングブルート氏ほからのご冥福をお祈りして、この記事を終えます。