黒澤映画の全盛時代は、やはり「赤ひげ」を撮った1965年まででしょうが、それまで黒澤明とつながっていたスタッフもやはりその多くは故人になっていますが(なにしろ来年は、「赤ひげ」ですら、製作50年後ですからね)、また1人重要なスタッフが亡くなりました。もっとも黒澤最大の右腕といっていい橋本忍氏はまだご存命です。記事より。
>斉藤孝雄氏死去 黒沢映画の撮影担当
斉藤孝雄氏(さいとう・たかお=映画撮影監督)6日午前1時8分、慢性リンパ球性白血病のため神奈川県座間市の病院で死去、85歳。京都市出身。葬儀・告別式は11日午前11時から相模原市南区古淵3の33の21、相模斎場で。喪主は長男和夫(かずお)氏。
「椿三十郎」をはじめ「影武者」「乱」など数多くの黒沢明監督作品で撮影を担当した。テレビ映画も多く手掛けた。
[2014年12月8日1時30分]
斉藤氏は、黒澤遺作の「まあだだよ」まで撮影監督をつとめました。これが93年ですでに21年前の作品ですから、当時はまだ60代なかばだったわけで、それからもずいぶん長い時間が経ったわけですね。
ウディ・アレンは、黒澤映画のカメラマンを自分の映画にスカウトしようとした(か、具体的なアクションを起こしたかどうかは分からないのですが)というのですが、それが誰かは分かりません。たぶん中井朝一か宮川一夫、そして斉藤孝雄のなかの誰かでしょうが、実現したらこれはすごいことだったと思います。アレンは、自作にカルロ・ディ・パルマやスヴェン・ニクヴィストのような外国のカメラマン、あるいは自国のカメラマンでもゴードン・ウィリスのような超Aクラスのカメラマンを起用しています。ところでウィリスも今年亡くなったのですね。この記事を執筆していて初めて知りました。
黒澤映画での最重要カメラマンはたぶん中井氏でしょうが、溝口健二と宮川一夫、小津安二郎と厚田雄春、山田洋次と高羽哲夫など伝統的な日本映画は、監督と映画カメラマンとが密接につながっていました。海外では、やはり日本と撮影システムが違うので、米国などは特定のカメラマンと一緒に映画製作を続けるということがなかなか難しいところもあるようです。ゴードン・ウィリスといい関係であり続けたアラン・J ・パクラのような人もいます。長きにわたってラウール・クタールといっしょに仕事を続けることのできたジャン=リュック・ゴダールなどはやはりフランス(スイス)の監督だからそれが可能だったという側面があったのでしょう。個人的には、デヴィッド・リーンとフレディ・ヤングのコンビは、監督と撮影監督のかかわりの最高のレベルだったかと思います。残念ながら、リーンの遺作「インドへの道」では、ヤングの起用には至りませんでした。
それにしても、当たり前といえば当たり前ですが、すごい映画監督の周囲には、すごいスタッフが集うよね。黒澤映画のカメラマンなんて、どれも「すごい!」という人たちばかりだし、シナリオも黒澤自身がすごいシナリオライターですが、ほかにも橋本忍や、小国英雄、菊島隆三など、不世出の脚本家といっしょに仕事ができました。大島渚も田村孟や佐々木守、石堂淑朗などの優れた脚本家と仕事をしたし、義弟でもある戸田重昌はこれまた桁外れの実力のある美術の専門家です。このような例は枚挙に暇がありません。映画監督というのは、ある意味天才とは違った能力を必要とする芸術家です。自分で仕事が完結できる芸術家と違い、映画監督は、どんなに能力があっても、さまざまなスタッフとキャストとの協同によって作品を仕上げます。いわば人身掌握や調整能力のような才能が必要なわけで、助監督として優秀な人物でも監督としての能力は別であるところもあります。どんな優れた監督でも、いいスタッフといいキャスト(必ずしも有名な俳優という意味ではありません)がいなければいい映画は製作できません。つまりは、映画監督の才能というのは、さまざまなスタッフとキャストといい仕事ができる才能と不可分なものなのでしょう。
斉藤孝雄さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。