今日仕事が終わったら、新幹線で関西に行きます。3泊しますが、予定は特に決めずに、即興的な旅行をしたいと思います。というわけで、コメント欄とかは対応できるかどうかわかりませんので、悪しからずご了承ください。
今日から関西に行く
そういうのを、領有権を実質的に放棄している、というのだと思う
過日(11月23日)bogus-simotukareさんのブログを見ていて、次の記事を読みました。
その日は別の本を探しに本屋に行くつもりだったので、早速それも探してみて、手にとってみました。
さすがに2015年にもなって、南樺太うんぬんなんて話をしたって時代錯誤じゃねーのと思います。北方領土や竹島、尖閣諸島とちがい、政府ですらそんなこと相手にしてくれてないじゃないですか。では目次を。
>ニッポン 領土問題の原点!!
「樺太-カラフト」を知る
侵奪―回復―放棄―不法占拠―そして?
【発行所:産経新聞社 発売所:日本工業新聞社】
・十六世紀から「日本」でも現在は死語? 「樺太」をめぐる学外からの一視点…高橋是清
・アジア同様に列強の領土侵奪受けた日本 幕末・維新期の蝦夷地をめぐる日露関係…淺川道夫
・日露戦争は樺太回復の戦いでもあった―明治の国民世論と国際条約の現実…岸本昌也
・赤軍の大規模虐殺と樺太全島回復 尼港事件が現在に投げかける教訓…福井雄三
・移民政策めぐる官と民とのすれ違い 「植民地研究」からみる樺太…竹野学
・「棄景」の語る樺太産業と鉄道の関係誌 未完に終わった開拓・殖産の実像…三木理史
・樺太の朝鮮人と抑留帰還裁判のまやかし なぜ「強制連行」が捏造されたのか…新井佐和子
・〝別天地〟樺太の家庭、くらし、喜怒哀楽 忘れ得ぬ我が故郷の思い出…元樺太住民
・地上戦、占領、抑留、避難―樺太の終戦 40万住民の思いを語る…小嶋正吉
・非道な住民虐殺と姑息な洗脳教育 ソ連が樺太で続けた悪行とその影響…金谷哲次郎
・北樺太オハの日本人捕虜収容所―証言とソ連記録から見たその実態…松井憲明
・シベリア抑留―ロシア国家犯罪の検証を 実数は七十万人・死者十万人だった…長勢了治
・疎開三船殉難の悲劇と樺太最新事情 言い逃れ困難なロシアに遺族ら要望書…山名俊介
・ロシアとせめぎ合う北洋漁業の苦悩 北方領土の「母都市」根室の将来…石垣雅敏
・露の樺太・千島・四島占拠は侵略だ 強硬発言は国際法違反自覚の裏返し…有馬哲夫
・「南樺太返還期成同盟」という運動が存在した 講演と資料「樺太返還問題と国際関係」……渡辺国武
・南樺太の法的な領有権は? ゆくえは日本国民しだい…阿部寛
・功名心で国家・国民を大きく損ねる 父祖の代から続く「鳩山・河野コンビ」…本誌編集部
・党略で樺太を投げ棄てた日本共産党 おかしな領土解釈はロシアを利するだけ…篠原常一郎
・北方領土返還運動―女たちの闘い 全地婦連の半世紀とこれから…柿沼トミ子
・サハリンプロジェクトのルーツは戦前 石油天然ガスめぐる日露のつながり…杉本侃
・ロシアの領土観と日露の安全保障―北方領土問題を俯瞰して考える…兵頭慎治
・北太平洋沿岸諸民族の歴史―北海道太―樺太―千島―カムチャツカ―アリューシャン…渡部裕
・日本カラ、フト消えし島 先人の背骨の強さに思い馳せれば…黒鉄ヒロシ ・樺太地図と地名・ロシア占拠名対照表
筆者を見ると、いわゆる産経文化人ではないですね。私の知らない人たちがほとんどです。そう考えると、これ産経からしてもある程度固定読者が見込める特集ではないですから、あえて新たなところへ踏み込んだものなのかもですね。
現在日本の地図は、南樺太の部分は、白くなっています。つまり日本政府の立場としては、「領有権未定」ということです。日本の政府ですら、その程度のことしか主張できないのだから、これを日本側が今後どうこうできる見込みはないでしょう。北方領土や竹島だってどうこうできなさそうですが、日本は建前はともかくとして、南樺太なんか実質的に放棄しているでしょう。
ところでWikipediaの「樺太」に、次のような記述があります。
>南樺太を巡る領土問題
(略)
この問題について、日本政府は豊原(ユジノサハリンスク)での日本総領事館設置や航空協定等の締結によって、南樺太のロシア連邦への所属を事実上認めているという説がある。しかしながらこの説に対しては、領有を主張しているものの実効的支配を奪われている場所について国民保護のための措置として領事館を置く、ということは成り立つのであるから、総領事館があるということをもって直ちに領有権を追認しているとはいえない。これに類する例としては満州国へのソ連領事館設置があげられる。なお、日本政府自身は領事館の設置と領土の問題とは無関係であり、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとの見解を示している。
いや、
>日本総領事館設置
というのは、まさに領有権を実質的に放棄しているということじゃないですかね。領土について、それなりの疑義があると本気で考えていれば、総領事館なんか設置しないでしょうに。
政治的建前は
>総領事館があるということをもって直ちに領有権を追認しているとはいえない。
だとしても、いまさら日本政府がこんなことに異を唱える意志も見込みもないんじゃないんですかね。だいたい紹介されている
>満州国へのソ連領事館設置があげられる。
なんて、当時の「満州国」とソ連の関係と、現在のロシア連邦と日本じゃ、時代や国際情勢や状況その他事情が違いすぎて比較などしたってしょうがないでしょう。
外務省には、大使館なり領事館を設置する際の基準となる内規というかガイドラインみたいなものがあるはずで、それは機械的に当てはめるものではないのか、日本との関係の強弱などである程度弾力的に運用されているのかどうか知識がありませんが、ユジノサハリンスクにおける領事館設置というのは、それがどのような判断で設置にいたったかはともかくとして、事実上南樺太はロシア領であることを認めた行為だと思います。政治的建前はともかくとして。
また特集では、編集部執筆として
>功名心で国家・国民を大きく損ねる 父祖の代から続く「鳩山・河野コンビ」…本誌編集部
とありますが(たぶん外部の人でこんなこと書いてくれる人がいなかったのでしょう)、そんな過去の話したってしょうがないじゃないですかねえ。するんなら、現安倍政権、日本政府にすればいいじゃないですか。いま言わずしていつ言うです。産経にとって、神聖にして侵すべからずの安倍晋三にそんなこと言えないですか? 鳩山、河野両氏を批判するのは、お2人が、産経が大嫌いな鳩山由起夫、河野洋平両氏の祖父・父だからですか? 馬鹿もいい加減にしてくださいよ。
ていいますか、産経は、やはり大嫌いな民主党政権時はこういうことを主張したんですかね。したのかもですが、どっちみち本気でしてはいないでしょう。いずれにせよ口先だけにもほどがあります。
それにしても、これって新たなる顧客開拓の意図かもですが、南樺太の話なんかしたって、世間からほとんど相手にされるとも思えませんけどね。それもどうかです。
なおこの記事は、bogus-simotukareさんの記事を全面的に参考にしました。感謝を申し上げます。
ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(82)
あんまり日本ではこのような店は見当たらないような気がします。
我が定宿のメトロホテルです。
ソウルに来たら、この明洞の店に来ないとソウルに来たかいがないというものです。
疲れているときは、甘くて冷たいものをいただくに限ります。
明洞をぶらつきます。
例によって例のごとく、手をつないでいる女性に注目してしまう私。
ややお歳を召した女性も、やはり腕を組んでいます。
屋や年齢差があるように見える若い女性たちもです。
ね、腕を組んでいるでしょ。
韓国人の女の子は、日本人より双方密着度が高いように思います。
ね、みんな仲良く手をつないでいるでしょ。
断っておきますが、別に彼女らの多くは、同性愛者じゃないですよ。そういう人もいるかもですが、多くはそうではない。単に仲がいいから、一緒に手をつないでいるだけです。
で、(よせばいいものを)こういう写真を見せたら、ある女性から言われました。
ある女性「女の子しか写っていないじゃん」
私は怒って言いました。
私「女の子しかじゃないよ。『女の子も』だよ」
ではソウル駅から仁川国際空港へ戻ります。
(つづく)
ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(83)
地下鉄から、ソウル駅に上がります。
空港鉄道に乗ります。
いつも思いますが、深いと思います。
それで、私としたことが大変なミスをしてしまって、ホーチミンで渡されたソウル→東京の搭乗券(ボーディングパス)を紛失してしまいました。で、いまさら見つかるわけもないので、しょうがないからアシアナのカウンターで紛失したと話すしかないなと思って話したら、簡単に再発行してもらえました。よかった。まあ大丈夫だろうと考えていたせいもありますが、私って意外と冷静なのだなと思いました。以前職場の某女性(「浅田真央を嫌いな日本人ていませんよね」と言った女性)から、「McCrearyさんていつも平常心ですよね」といわれたことがありましたが、確かにそうなのかもなという気はします。もっともその言葉がほめ言葉かどうかは怪しいものです。
こういう写真を撮っちゃう私も大物です。母娘でしょうが、やはり密着度が高いですね。
仁川国際空港駅に着きます。冬の日がきれいです。
ローラースケートで遊ぶ子どもたちです。
出発ロビーへ急ぎます。
出国して便を待ちます。
アシアナのスタッフですかね。
土産のチョコレートです。これはおいしいのでおすすめです。実は、アイルランド・英国紀行でもこれをお土産にしました。アシアナでロンドンへ行ったので、ソウルによったのです。
機内食です。アシアナですからおいしい機内食を出します。
長きにわたって拙記事をお読みいただきありがとうございます。すぐアイルランド・英国紀行の記事が始まりますので、そちらもぜひお読みになってください。しかしこの旅行記も長期の記事になるのだろうな・・・。
(完)
ミャンマーにまた行くつもり
記事にはしていませんが、2015年2月~3月に、ミャンマーのヤンゴンに行きました。いつものことながら、いろいろ面白い旅でした。
それで、2011年に初めてミャンマーに行ってから、私は2015年まで2014年以外は1年に1回は行っています。13年には2回行きましたから、計5回です。
それで何人か顔見知りの人もできましたし、だんだん私も、ヤンゴンの街について詳しくなりました。いろいろなことがわかってきたとでもいうべきかもしれません。
逆に、ちょうどこの時期がミャンマーが軍事政権から変化していく過程でしたので、この国が良かれ悪しかれ急速に変化して行くことも感じました。11年の際は、80年代くらいの日本車がやたら走っていたのですが、だいぶ数が少なくなりました。11年の際は、古い日本車を「お、古い車がある!」と眺めていた私を、自分を眺めていると勘違いした若い女性が、微笑み返してくれました。それがあったから、私はミャンマーが好きになったといっても過言でないのですが、しかしそのような部分もだいぶなくなりましたね。街の人々の写真を撮るのも、11年の頃ほど豪快に撮るわけには行かなくなっています。いい悪いはともかく、それが近代化、現代化というものだと思います。
実際2015年に通りで写真を撮ったら、若い女性がかなり恐い目で私を見ました。道行く人からそのような表情をされたのは初めてだったので、このとき、あ、ミャンマーも変わったなと思いました。たぶん2011年のミャンマーも、昔を知っている人たちからすればずいぶん変わっていたのでしょうが、11年から15年までの短い間でも、この国はずいぶん変わったと思います。かつては写真を撮ることを快くOKしてくれた人が、そうでもなくなる過程を見るのは、仕方ないとはいえやはり残念です。
しかしそのようなミャンマーが今後どんな姿に変貌して行くかということも私にはとても興味があります。いずれ移住する予定ですから、その時のその変化に私も対応していかなければなりません。
そういうわけで、2016年もヤンゴンに行くことにしました。どのような旅になるかはわかりませんが、また私なりに写真を撮って読者の皆さまにお見せしたいと思います。どのような姿になっていくのか、いろいろ私なりに観察してみたいと思います。
世の中理不尽な災難にあうこともある
今回は、本にのっとった記事ですが、「書評」タグでなく「スポーツ」にします。もっとも「社会時評」でもいいかもしれません。
父親が筋萎縮性側索硬化症(ALS)で死亡したので、ALSについてはいろいろ興味関心があります。もっとも父が発病する前から、テレビのドキュメンタリーを見たり本も数冊読んでいたのでそれ以前からそれなりの知識はありましたが、やはり親がその病気で死亡したとなると関心の度合いは強くなります。
それで、PL学園出身で春夏の全国制覇を成し遂げた元高校球児(その後大学・社会人野球でも活躍)がALSを発病して闘病生活を送っているということは知っていました。そして、つい最近、その方が今年の10月に亡くなったことを知りました。
(2015年10月9日) 【中日新聞】【夕刊】【その他】1987年に甲子園の春夏連覇を成し遂げたPL学園高校の正捕手で、社会人野球を引退後に難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)となり闘病中だった名古屋市千種区の伊藤敬司さんが8日、46歳で亡くなった。少年時代から一緒にボールを追いかけ、闘病中も交流を続けた元中日ドラゴンズの立浪和義さん(46)は「野球への情熱がすごかった。彼の遺志を継いで、難病と闘う人を勇気づける取り組みをしていきたい」と冥福を祈った。 (細井卓也)
伊藤さんは兵庫県西宮市生まれ。PL学園当時、立浪さんや、大洋・横浜(現DeNA)で活躍した野村弘樹さんや橋本清さん(巨人など)、片岡篤史さん(阪神など)らとともに甲子園で活躍。卒業後も青山学院大、社会人野球のJR東海でプレーし、野球一筋の人生を歩んだ。社会人野球を引退した後は、JR東海のグループ会社でビル管理の仕事に励んだが、38歳の時にALSを発症し、5年前から自宅療養を続けていた。
今年4月には、フリーライター矢崎良一さんとの共著で、自らの野球人生を振り返る「PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って」(講談社刊)を出版。野球で培った忍耐力や、闘病中の心の葛藤などを率直につづった。7月の本紙の取材に「(本の出版は)生きた証し」と語っていた。
伊藤さんは闘病中、眼球を動かして文字盤に視線を送り意思を伝えていた。自身を介護する妻桂子さん(46)やヘルパーの負担を思いやる一方で、「難病患者を介護できる介護者が少なすぎて、介護事業所の超売り手市場の構造ができてしまっている」と重度訪問介護の課題も投げ掛けた。
桂子さんによると、伊藤さんは9月、呼吸に伴う苦しさの緩和のため、自宅から名古屋大病院に移っていたという。入院前、伊藤さんのブログ「必死のパッチ〜難病パパの日記〜」には、「金曜日から入院します。それを見越して娘が歌をプレゼントしてくれました。立派に育ててくれて嫁さんありがとう。どれ位入院するかわかりません。恐らく日記もかけなくなると思います。(中略)皆さん本当にありがとうございます」と記されていた。亡くなる直前はヘルパーに足をマッサージされ、気持ちよさそうな表情を浮かべていたという。
桂子さんは9日、亡きがらを前に「難病のALSとなったことは残念だったが、野球を通じて多くの方と関わることができて本人は幸せだったと思う」と話した。
通夜は9日午後7時から、葬儀は10日正午から、名古屋市千種区田代本通1の8、ティア覚王山で。喪主は妻桂子(けいこ)さん。
筋萎縮性側索硬化症(ALS) 筋肉を動かす神経が侵され、全身の筋肉が動かなくなる厚生労働省の指定難病。国内の患者数は昨年3月末時点で約9200人。詳しい原因は分かっておらず、有効な治療法は確立されていない。
伊藤敬司氏は、1969年生まれで、PL学園に1985年に入学して88年に卒業します。桑田真澄と清原和博が2年上、同級生に立浪和義、片岡篤史、野村弘樹、橋本清、1年下に宮本慎也と、まさに綺羅星のようなすごい時代の在籍だったわけです。氏自身は、プロ野球への道はかなわなかったものの、青山学院大学を卒業後30代なかばまで、JR東海で選手、コーチをします。つまり氏は、ほとんど野球のセミプロみたいな人だったと考えられます。それで上の記事にある本をさっそく入手して読んでみました。共著になっていますが、記述のほとんどは、フリーライターの矢崎良一さんによる執筆です。
氏のALS発病後の苦悩や闘病についても非常に興味深いのですが、本日はそれについてでなく、伊藤氏がこうむった災難の話をご紹介します。氏がPL学園1年生だった時の85年の話です。
実は、伊藤氏の父親が、巨人のスカウトだったわけです。それで、決して中学時代抜群の実績や能力があったわけでない伊藤氏は、父親の勧めでPL学園に入学します。自分にPLは分不相応だと思っていた伊藤氏は戸惑いますが、しかしPL学園でプレーできるのは、まさに高校最高峰のレベルで野球ができることですから、入学をします。
それで85年のドラフト会議で、早稲田大学進学を表明していた桑田が巨人に指名され、巨人入団を熱望していた清原は西武ライオンズに指名されます。それで激高した清原は、授業中の伊藤氏のもとへ押しかけます。
>突然、ドーンという音とともに、いきなり教室の後ろのドアが壊れんばかりの勢いで開いた。そして、教室中に凄まじい怒声が響いた。
「おい、伊藤!」
教室内には1年生の野球部員も何人かいたが、一瞬にして全員が凍りついた。
「どないなっとんねん。巨人、桑田やんけ。なんで俺とちゃうねん」(p.96)
そんなこと言われたってねえ、伊藤氏だって、困りますよね。困るにもほどがあるというものです。
この85年のドラフトについては、いろいろ物議をよびましたが、だからといって伊藤氏はなんの関係もないしねえ。伊藤氏の父親は、当然この件に深く関与していたわけでしょうが、それにしてもです。なお、この本によると、その後伊藤氏は清原と言葉を交わす機会すらなかったとのこと。
それだけでも大変ですが、この後伊藤氏に関して、マスコミはかなりひどい報道をします。
>敬司自身も登下校の時などに報道陣からマイクを向けられたり、容赦なくカメラのフラッシュを浴びせられたりした。そして、ドラフト以降に発売された週刊誌には心ない誹謗中傷記事が掲載された。
多くは「(父が)実力もないのに自分の息子を入学させ、PLの父兄となって桑田家に接近し、密約を工作した」といった内容のものだった。(p.98)
という報道がされたわけです。
これはひどいですね。といいますか、正直世間がそう考えるのは(PL学園の1年生に、巨人のスカウトの子どもがいるということを知っていれば)仕方ないとは思います。しかしそれをマスコミで報道されちゃうと、これは完全な報道被害ですね。だって当時の伊藤氏は16歳の未成年で、PL学園の寮に住んでいるような立場です。当たり前ですが、反論すらできない。そのような能力もないでしょうし、能力があったって、まさかテレビなどのインタビューで「自分は関係ない」とも言えないじゃないですか。だいたい親の関係でPL学園に入ったかどうかなんて、反論のしようもありません。実際のところどうかなんて本人だって最終的にはわかりはしない。「そうでない」なんて本人が主張したって仕方ないし、学校側などが仮に「そんなことはない」なんてコメントをしたところで、それ以外のことを言ってくれるわけでもないのだからお話にもならない。
もちろん未成年でなく、それなりに反論能力がある人にだって、こんな報道すべきでありませんが、伊藤氏の父親がそれなりに批判されるのはともかく、伊藤氏のような立場の人にこのような報道をするというのはまさに最低最悪ですね。されてしまってはどうにもなりません。ましてや1985年では全く泣き寝入りというか我慢するしかないわけです。
しかしマスコミの報道もひどいですが、伊藤氏をどれくらいPL学園その他は守ってくれたのかなという気はします。それなりに守ってくれたんでしょうが、彼は野球部員なのだから逃げも隠れもできません。逃げるときは、野球部を退部→高校退学です。
それにしても仮に伊藤氏が野球部を去ったとしても、それを「弱い」とはいえませんね。当たり前ですけど。彼は強い人間でしたから野球部に残りましたけど、それができなくったって当然だと思います。理不尽な目にあったのですから。そのような事態にならず、それなりに野球をやれるだけやれたのは、本当によかったと思います。
それで伊藤氏の父親は、伊藤氏が亡くなる2か月弱前にお亡くなりになっています。伊藤氏は、自分の父親の死を知った後にお亡くなりになったわけです。
伊藤氏にとって父親というのは明らかに憎しみの対象でもあったわけで、その死に対しては、愛情だけでは語れない複雑なものもあったでしょう。そしてたぶん父親の方も内心さすがに心が痛むものはあったかと思います。
最後に伊藤敬司さんと伊藤菊雄さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。
アイルランド・英国紀行(2015年9月)(1)
それでは、今年の9月に12日間旅行したアイルランドと英国の旅を記事にします。終了は未定です。
2015年9月18日、戦争法案の可決が近い時期の成田空港です。
今回は、アシアナ航空で、ソウル経由のロンドン行きです。アシアナに搭乗するのは、ホーチミン行きに乗って以来かな。韓国人の係員が、私のチェックインを担当してくれました。彼女は、1か月半ちょっと後にまた姿を見ます。
ソウル行きに搭乗します。
アシアナ航空ですから客室乗務員も美人です。
機内食です。フルサービスですからしっかり食事がつきます。コチュジャンのチューブがついているのが韓国系のエアらしいところ。
全く関係ない話ですが、映画のヌードシーン(セミヌードですが)に、このような自主規制がなされていました。映画は、「靴職人と魔法のミシン」。
仁川国際空港につきます。これからロンドン行きに乗り換えます。
トランスファーの目印に向かって進みます。前回のホーチミン行では一度入国したので、仁川国際空港で乗り換えたのは実は初めてです。
荷物チェック、ボディチェックを受けて―
待合のエリアに入れます。ほっとする私。
私の便が出発するゲートを確認します。
39番ゲートから出発します。
今回、カメラを替えまして(初めてオリンパスを買いました)、するとそのカメラは上のような画像処理をしてくれる機能があるので、不要ですが間違ってスイッチを押してしまいまして、上のような写真になりました。
この写真を撮ったあたりで「おかしいな」と思ったので通常モードに直しました。それはともかくスリッパを配るあたりは、さすがフルサービスのエアです。
長いフライトですので、機内食が2回出ます。いいかげん腹がもたれますが、しかし食べてしまう意地汚い私。なおアシアナは、お手洗いに歯ブラシが置いてありますので、自分のがなくてもお手洗いに行ったついでに歯を磨けます。私も磨きました。
ロンドンにつきました。ヒースローを利用したのは、2012年~2013年のベネルクス紀行以来です。あの時はトランジットでしたので、入国はしませんでした。
今回利用した第二ターミナルは、最近完成したものです。
厳しいので有名な英国の入国審査に身が引き締まります。私はこれに対応するためにネクタイを締めておきました。それで「All other passports」のラインに並んでいると、私の前に同じアシアナ航空機に乗ったらしい日本人男女2人組(話し方を聞いていると、カップルではなかった模様)が話をしていまして、男性だったかが次のように言いました。
「航空券28万円だったんですが・・・」
「えー!!! 28万!!! 私は13万円ですよ!!! 」
とは言いませんが、ビジネスで渡航するのなら仕方ないとして、旅行で東京⇔ロンドン(たぶん往復でしょう)を28万円じゃいやですねえ。ほかのところへ行きたいですね。この男性がビジネス目的の渡航かどうかわかりませんが(服装や雰囲気ではビジネスではなかったと思いますが)、それは高いというものです。
それはともかく私の番がきました。係官の指示で、指定されたブースに行きます。まずは「Hello」とあいさつします。
白人の中年係官は、私のパスポートと入国カード(書き忘れましたが、韓国のエアで配られた入国カードですので、英語と韓国語のカードでした)を確認して、ビジネスの目的ですか、と私に聞きました。年齢もそうですが、ネクタイを締めていたからかもしれません。
私「いえ、観光とトランジットです」
ビジネスかと聞かれてまんざらでもない私。まあ外国へ仕事で行くのは大変ですけどね。
係官はすぐ入国スタンプを押してくれました。滞在日数やEチケットの確認も、所持金の確認もありませんでした。私はこれで英国入国が3回目ですが、いつもかなり甘い入国審査です。それなりに私に信用できそうな雰囲気があるのかどうかわかりませんが、ありがたいことです。最初の時は、滞在日数と入国目的を聞かれたのが記憶に残っています。2回目はもっと甘かったですが、今回は一番甘かったように思います。
空港の外に出ます。
ヒースロー・エクスプレスの宣伝をしている人がいて、アジア系の客が確認をしていました。私は今回は、これはお呼びではありません。
入国した人を柵の向こうで出迎える光景、これは世界中変わりません。
(つづく)
忘れていたが、このブログが9年目に突入した
例年私は、このブログの12月15日の記事は、たとえば
というような記事を書いていました。その理由は、このブログは2007年12月15日に始めたからです。しかし今年は、なぜかそのことが頭から消えていたので、そのような記事を書きませんでした。それなので今日書きます。
まる8年ほぼ継続して更新したブログというのはそれなりには、少なくとも私には価値はあります。2015年も、安保法制の問題など、政治系では私には冬の時代ですが、まあしかし9年目も、2016年も、映画、旅、政治、スポーツ、美女その他について執拗に更新を続けますので、乞うご期待です。リオデジャネイロオリンピックの際はそれなりのアクセス数が見込めそうです。最近アクセス数がやや不振ですので、ここは継続していろいろな記事を書いていきます。
といいつつ、そろそろこのブログも閉鎖してもいいかなという気もします。10年書いたら、ブログとHNを捨てて、ネット論客から引退しようかなとも考えます。その時にまたお知らせします。しかし突如として閉鎖するかもですので、そうしたらごめんなさい。
あ、去年するなんて言っていたオフ会も、やっぱりしなければと考えます。私も口先だけの男です。
アイルランド・英国紀行(2015年9月)(2)
ヒースロー空港というのは、さすがに世界でも別格に存在感のある空港だと思います。新しいターミナルだから、まだ壁もつるつるです。
再会を祝います。
今日は街の真ん中に行かずに、空港近辺のホテルに泊まる予定です。
私が自慢するようなことではありませんが、やはりなかなか美しいターミナルの姿です。
これがホテルホッパというヒースロー空港近辺のホテルを回るバスでして、私もこれに乗るつもりでしたが、あいにく乗り損ねます。
というわけで、ちょっと次のバスまで時間が空いたので、水などを仕入れることにしました。出発ロビーに行ってみます。
なかなかかっこいい雰囲気です。
「コスタ・コーヒー」がありました。これは、英国中に支店があります。プノンペンでも見かけました。清涼飲料を仕入れます。これが英国での最初の買い物になりました。
スポーツ中継をしているので見てみると、あらま、ラグビーワールドカップの開幕戦であるイングランド対フィジーの試合をやっていました。このときは、イングランドが予選落ちすることも、日本がどえらいことをすることも、もちろん私だけでなく世界中の人間が知りません。
私以外にも写真を撮っている人たちがいました。
あらためてバスを待ちます。
片道5ポンド、往復9ポンドです。法外に高いといえば高いですが、しかしタクシーなんか乗ったら目が飛び出るので、やっぱりこのバスに乗ります。白人の運転手の男性が強い英国アクセントで話をしていたので、ああ英国に来たのだなと改めて感じました。
かなり込んでいます。
だいぶ後の方になってバスは私の予約するホテルに到着しました。もう現地時間(グリニッジ標準時)20時45分ごろです。
さっさとチェックインを済ませます。この日はエレベーターが動かないというので、階段で登ります。といっても2階(英国の数え方では1階)なのでどうということもありません。
それにしてもレセプションの人の多くは非白人です。私の対応をしてくれた男性も、インド系のようでした。
ラグビーのワールドカップをここでも見ています。イングランドが勝ちそうです。
部屋は郊外のホテルの部屋なのでやはり広めでした。ヒースロー近辺のホテルで広い部屋を確保するのも悪い考えではないかも。宿代もそんなに高くはない。
外は雨が降っています。機内食を食べているので別に夕飯など食べることもないのですが、やはり食べることにします。しかしこの近辺にレストランもコンビニのたぐいもあるわけがないので、ホテルの中で食べることにします。
英国に来て「ステラ・アルトワ」みたいなベルギーのビールなんか飲まなくてもいいような気もしますが、おいしくいただきます。しかし今回の旅行の最中英国とアイルランド以外のビールを飲んだのは、この時が最初で最後でした。
スパゲッティをいただきます。まったく味には期待していなかったのですが、しかしおいしくいただきました。
まさかこの翌日に、世界スポーツ史に残る大大番狂わせがあるなんて、この時の私は全く想像していませんでした。
(つづく)
アイルランド・英国紀行(2015年9月)(3)
早朝のホテルです。
朝ですので、バーは誰もいません。
おっと、写真を写している私が写っちゃっていますね。よって画像処理をかけておきます。右翼にねらわれたらいやですから。
ホテルで朝食をいただきます。朝食付きのプランでなかったので、金を改めて払います。
チェックアウトしてヒースロー空港へ向かいます。
ターミナル3で降ります。
バスに乗ろうかと思いましたが・・・
やはり鉄道で移動しようと思い、地下鉄に乗ることにします。ロンドンの地下鉄は、「アンダーグラウンド」とか「チューブ」と呼ばれます。「サブウェイ」は米国英語です。
そうなんですか? それじゃ私のようなロンドンに詳しくない旅行者は大変じゃないですか。
ヒースローの駅ですので、さすがに白人からアラブ人、インド人、アジア人、黒人、さまざまな人たちがいます。
このインフォメーションのお姉さんきれいです。
オイスターカードを買うために列に並びます。日本のSuicaのような非接触型ICカードです。
このインド系らしい男性から買いました。ロンドンの地下鉄の窓口などで、白人が働いているのを私は見たことがありません。
ピカデリー線に乗ります。
小さな車両です。
地下鉄の車両の中です。危険なのでこのような写真は撮らないようにしましょう。
グリーン・パーク駅で降ります。
(つづく)
アイルランド・英国紀行(2015年9月)(4)
どういうグループ化は不明ですが、女の子たちの集団がいて記念写真を撮っていたので、私もどさくさに紛れて撮ります。危険なのでこのような写真は撮らないようにしましょう、って撮る人もあまりいないでしょうが。
ニコール・キッドマンの舞台があるんですかね。それは私も見てみたい。
それにしてもロンドンの地下鉄も狭いですよね。
電車が入ってきます。
こういう写真は、私のような人間だから撮れるのです。悪いことは言いませんから、真似して撮るのはやめた方がいいと思います。
どうどうと化粧をしている女性もいます。
ユーストン駅です。ここで降りて、今日の目的地へ行きます。
さすがにターミナル駅と直結する駅なので、だいぶ乗降客の多い駅です。
ユーストン駅です。
今日の目的地へ行くために列に並んで切符を買います。
なかなかいいイラストです。同でもいい話ですが、私カッサンドルのあのポスターは好きです。何かって? 沢木耕太郎の本に出てくるあれですよ。
ダブリンがグリーンなのは、やはりアイルランドを意識しているんでしょうね。
しばらく並んで切符を買いました。クレジットカードで買いましたが、やはり散財です。
やはり鉄道職員への暴力というのは、英国でも問題ですかね。「abuse」と「excuse」で韻を踏んでいます。
それにしてもいろいろな人たちがいます。だから私は、このような鉄道の駅が大好きなのです。
昼食を仕入れます。
この写真がちょっと気に入ってしまい、現在自宅PCの壁紙にしている写真の1枚です。
改札口を間違えてしまい、ひいひい走ります。日ごろの運動不足を思い知らされます。
私が乗る鉄道は、ヴァージン・トレインズです。英国は国鉄を廃止して、いろんな会社が鉄道事業を運営しています。ヴァージン・グループ の運営する会社です。
写真の左の奥をご覧ください。自転車がたくさんあります。このあたりは欧州らしいかなと思います。14年に行った北欧でも電車の中に自転車を持ち込んでいる人たちがたくさんいました。
こういう感じです。
車内です。なかなかきれいです。
昼食です。さあ、私の目的地はどこ?
(つづく)
大阪で、沖縄のミュージシャンのライヴを楽しむ(ゆいゆいシスターズ)
先週の17日の夜から20日まで、関西方面に行ってきました。一応京都、大阪、兵庫の3府県に足を運びましたが、ちょっとすぐには記事を書く余裕がないもので、今日は今回の関西紀行のハイライトであった居酒屋ライヴの話を書きます。
完全な偶然だったのですが、19日に大阪・天満の居酒屋で、「ゆいゆいシスターズ」という沖縄のグループのライヴがあることを知ったのです。私は、女性3人組の彼女らにいろいろな理由から注目していたのですが、まだライヴを聞いたことはなかったので、これを逃したら馬鹿だと思い、すぐにその居酒屋に予約の電話を入れました。こういった飲食店でのライヴというのは、ネット仲間のinti-solさんの演奏に2回行っただけ(こちら、こちら)で、人生3回目です。
会場は、奄美大島の料理を出す居酒屋です。開場を待ちます。
3人組です。あまり似ていませんが、真ん中のリーダーと向かって左側の女の子は母娘です。向かって右側の女性は、2014年のミス沖縄です。さすがの容姿です。
ミス沖縄の女性が踊りまで見せてくれました。やはり美しい女性は絵になります。
ブレイクで席に降りてきて記念写真に応じたりします。気さくな人たちです。
衣装を替えて後半は、やや民謡色が強くなりました。
ラストは、お約束(?)の観客をふくめての踊りです。私は圧倒されてしまい唖然としていました。
CDを買い(消費税分はありませんでした)、サインをもらいます。いい想い出になりました。こちらから買えます。
沖縄を中心に活動しているので、本土(内地)に来ることはそんなにないと思いますが、ご興味をございましたらイベントなどに登場する機会に遊びに行ってください。。
今日から台湾に行きます
恒例年末年始の旅行で、台湾に出かけます。といっても飛行機が出るのは夜で、私は青春18きっぷでひいひい関西国際空港まで向かいます。
そこまでするかと思う方もいるかもですが、そこまでするのが旅行好きとか私という人間です。ピーチで国外に行くのはこれが初めてかな? 安さにはかえられません。
というわけで、1月2日までは自動更新にしておきます。コメント返しはしばらくできませんが、無事に帰国できましたら、3日にはコメントもお返しできるかもです。
2015年下半期に劇場で観た映画
2015年7月から12月にかけて私が映画館で観た作品をご紹介します。(*)は午前十時の映画祭の作品、(**)は、7月に渋谷であったヌーヴェルヴァーグの上映会で観た映画です。
赤ひげ(*)
アパートの鍵貸します(*)
アフリカの女王(*)
アントワーヌとコレット(**)
五つの哲学的童話(ドナルド・リチーの短編)
駅 STATION(*)
駅 STATION(*)(2回目)
エデンの東(*)
王様と私(*)
カサブランカ(*)
家庭(**)
恋におちたシェイクスピア(*)
さらば友よ(*)
し(ドナルド・リチーの短編)
終電車(**)
ショーシャンクの空に(*)
新幹線大爆破(*)
新幹線大爆破(*)(2回目)
素晴らしき哉、人生!(*)
戦争ごっこ(ドナルド・リチーの短編)
宋家の三姉妹(*)
突然炎のごとく(**)
逃げ去る恋(**)
日曜日が待ち遠しい!(**)
猫と少年(ドナルド・リチーの短編)
八月の鯨(*)
ピクニック
メリー・ポピンズ(*)
やさしい女(2回目)
柔らかい肌(**)
夜霧の恋人たち(**)
ライフ(ドナルド・リチーの短編)
ラストエンペラー(*)
ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男
60本は超えましたので、公約した月10本以上観るという目標は達成できました。
この場でチンギス・ハンの犯罪について論じても、それには何の道徳的価値もないのだ(チョムスキー)
以前とあるところで、かのノーム・チョムスキーが2001年の同時多発テロ直後に行ったという講演について教えていただきました。私が書いているいくつかの記事ともいろいろ関連がある内容だと思いますので、読者の方々にも読んでいただきたいので翻訳して発表します。なお、原文はかなり長いので、私が読んでいただきたいところのみの抄訳であることをご了解ください。
(前略)
質問者2:チョムスキー先生、今夜はお越しいただきありがとうございます。私たちはみな、先生がここにいらっしゃることを光栄に思っています。先生のお話の最初でふれられたことに戻りたいと思います。先生は、ご自身が米国を非難するあるいは来週以降にも非難されるであろう「無言の虐殺」について話されています。まず第一に、アフガニスタンの人々が飢餓に瀕していることの責任が米国にあると先生がお考えでないことは私も認識しています。彼らが飢えていることの理由はたくさんありますが、先生は世界経済のせいにしておられるのかもしれません。そう、たしかに、先生は、アフガニスタン人がこの状況にあることの責任を米国に向けてはいないのです。第二に、先生の討論からは、タリバンを責任とするいかなる言及も全くもって欠けているように思います。タリバンは、ただ国際法廷にオサマ・ビンラディンを引き渡すことにより、先生のおっしゃるこの虐殺を終わらせることができるのです。すぐに終わらせることができます。先生の討論からは、これが完全に抜けています。(後略)
チョムスキー:私たちがすべきことについて、私が考えていることへの回答は、すでに出してある。しかし君の質問について考えてみよう。最初に、君は、私が米国を非難しているといったが、それは間違っている。私たちの目の前で起きたことを許すことについて、私は君を非難し、自分を非難し、その他残りの人間も非難する。(拍手)それは、米国を非難することではない。第二に、アフガニスタンと関係のあるに違いない「世界経済」と君は発言したが、それは正しくない。アフガニスタンは常に非常に貧しい国であり、現在の苦境には多くの理由があるが、2つの主要な原因はロシアと米国だ。1980年代、ロシアと米国は、ほとんどこの国を破壊しつくした。アフガニスタン人を助けたのではない。国が破壊されるや否や、2国とも撤退し、米国がロシアを悩ますために組織した武装勢力が権力を引き継いだ。いまは北部同盟と呼ばれている。ヒューマン・ライツ・ウォッチがアフガニスタンの歴史上最悪の時期とした90年代初期に引き継がれ、米国が組織した多くの犯罪組織は、まさに国を引き裂いた。50,000人がたぶん殺された。そう、連中は大衆を強姦し大虐殺し、カブールを破壊したのだ。実際には、あまりにこの勢力が恐ろしかったので、タリバンが1994年から95年に勢力を持った際は、実のところ歓迎されたのだ。少なくとも彼らはこの地にある種の秩序をもたらしたからであり、米国の戦争によって残された狂人たちを追いやったからだ。そうこうしているうちに、米国は何もしなかった。そう・・・最初に、米国に責任があるわけではない。それについて何かができる君や私のような人間に責任がある。そのようなことをする抽象的な「米国」全体なるものがあるわけではない。第二に、これについてすべきことはたくさんあった。本当にたくさんのことだ。その他たくさんの武装勢力があるのだ。
タリバンが政権を移譲することだけで問題を解決することができると君は言う。タリバンが消え去ればたくさんの問題を解決できる。いいね? 私も長きにわたってそれを熱望している。しかし、私には、タリバンを消滅させる術がない。そうだな、1980年代のソ連にいるとして、党や政府と意見を異にする人が、ソ連の(アフガニスタンへの)侵略を批判しているとしよう。そうすると、人民委員が立ちあがって言うだろう。「なぜ君は、ソ連の侵略を批判するのだね? アフガニスタン人がお互いに対してやっていることをなぜ批判しないのだね?」そう、これが人民委員の標準的なやり方だ。これについてどう考えるべきかはお分かりだろう。君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。たとえば、いまこの場で私たちは、チンギス・ハンの犯罪について討論をすることができる。そしてそれは正しいかもしれない。しかしそれにはいかなる道徳的価値もないのだ。歴史学としての価値はあるかもしれない。スリランカで進行中の犯罪についても同じだ。それらについて何かができるとは考えてはならない。学問上のセミナーを開催することはできるが、それに道徳的価値があると考えてはならない。タリバンについて君が私に言うのも、それと全く同じことだ。道徳的価値はゼロなのだ。彼らができることはたくさんある。例えば、タリバンができることの1つは、君が言ったことだ。第三勢力に政権を移譲する。それについての問題は、米国がそれを認めないことだ。現在、この2週間で起きている申し出についてどう向き合うか? そんなことはわかりはしない。申し出はいつもされているが、ジョージ・ブッシュは言う。「君たちとは対話しない。君たちとは交渉しない。政権を移譲してほしくない」タリバンがどれだけダメな組織かということとは無関係だ。連中はどうしようもない。どうしようもないクズは世界にたくさんいる。私たちがすることに私たちは関心を持つべきだ。それが私たちができることだ。道徳についての公理があるとするなら、このことだ。もしこのことが理解できないのであれば、道徳の領域にたちいることは出来ないのだ。(大きな拍手)
(後略)
チョムスキーの主張は、読めば読むほど非常に興味深いものがありますね。かつて私は次のような記事を書きました。
安倍晋三が口先だけの男でなければ、首相だった時に胡錦濤に同じことを言っている
安倍が胡錦祷にしたという発言は、まさにチョムスキーが言う
>君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。
ということそのものじゃないですかね。安倍は日本の政治家なのだから、まさに日本の人権問題について彼ができることはいろいろある。それで安倍は、そんなことをろくにしなくて、自分が無役の際に中国の国家主席に無責任なことを言って、それで首相だった時、あるいは首相に復活した時にはそのような発言をしないのだから、まさに私のいう「口先だけ」というのがそのまま当てはまります。チョムスキーにならえば、どっちみちそんな発言に道徳的価値などありはしないのですが、いまの安倍は「口先だけ」ですらないのだからお話にもなりません。安倍のこの発言を過大評価した人たちは、猛省すべきでしょう。
いちおう喪中です
例年このブログは、1月1日の記事は、なるべく干支にちなんだネタを書くようにしているのですが、今年は祖父が昨年亡くなったので、喪中とすることにしましたので(したがって年賀状も欠礼にしました)、このような記事にします。
したがって「おめでとうございます」とかは書きませんが、2016年もよろしくお願いします。
赤字の会社がそのような資金援助を行うのってのは、完全な背任じゃないのという気がする
だいぶ前ですが、フジテレビが、営業赤字であることが報じられました。
テレビ単体が上期赤字、営業費に大ナタ 2015年11月09日
「牽引役であるはずのフジテレビが、このような業績でよいはずがない」ーー。
収益柱の苦戦は深刻だった。フジ・メディア・ホールディングスが10月30日に発表した2015年4~9月期決算は、売上高が前年同期比1.7%増の3117億円、営業利益が同48.5%減の49億円。純利益は同58.2%減の50億円と増収減益だった。11月4日に開かれた決算会見で、嘉納修治社長は冒頭のコメントとともに「非常に厳しい決算になった」と語った。
(中略)
ただし、これらをフジテレビの苦戦が吹き飛ばした。フジテレビの単体業績は、売上高が前年同期比6.6%減の1466億円、営業益は10億円の赤字(前年同期は40億円の黒字)に終わった。視聴率の低迷から、放送収入は計画を約90億円下回った。番組制作費を含む経費削減を進めたが、バレボール・ワールドカップの放送や、「お台場夢大陸」(7~8月に開催された本社屋周辺の夏祭りイベント)のコスト負担もあり、大幅な減収減益となった。
(以下略)
実際にはホールディングス全体では(さすがに)黒字ですが、でもフジテレビのテレビ部門が赤字というのはやはり時代ですよね。いろいろ考えさせられます。それで、この件で最近ちょっと面白い記事を読みました。これ、BLOGOSからです。BLOGOSって、私も一応執筆メンバーなのだけど、最近音沙汰ないな。
それはともかく、筆者は
>私は繰り返し申し上げている通りで、「2020年までにはフジテレビは3冠を取り戻している」と今でも思っています。
と書いていますが、そんなことにはとりあえず私は何の興味関心もない。私がこの記事で興味関心があるのは、こちらです。
>さて、まとめておきますと、フジテレビの営業赤字は私はさほど気にしません。ちゃんと不動産業に着手しているし、内部にいた私は、そもそもあの局が「支払わなくてもいいお金」を支払いまくっていることを存分に知っているので、これでいい感じに支出を圧縮できるはずです。このニュースはネガティブなものではなく、ポジティブに受け取っています。
フジテレビは儲かりすぎていたのです。なので、色んな人々が群がってきました。その結果、本来であれば支払う必要のないお金が山ほどあるのです。今回のニュースでフジテレビは「こういう訳で赤字ですから…」と言ってそれらの金を切ることが出来るでしょう。
・・・・・(笑)。
たぶんこの
>本来であれば支払う必要のないお金
って、フジテレビが産経新聞に拠出している莫大な援助も入っているはずです(爆笑)。それは間違いない。
で、やっぱりフジテレビの社員て、産経新聞への援助ってのは、いい顔はしていないんだろうなと思います(笑)。それはそうで、あからさまには口にしないまでも、たいていのフジテレビの社員にとって産経新聞との関係なんていい迷惑でしょう。あんなものと近い関係にあったって、フジテレビにとっていいことなんか何もありはしない。少なくとも援助している分のプラスはないでしょう(笑)。
それはともかく、フジテレビはテレビ部門で赤字になったわけで、そうなるとフジテレビが産経新聞に行っている援助はどう説明をつけるんですかね(笑)。赤字の会社がすることじゃないでしょう(笑)。これ完全な背任じゃないの? いや、マジで。商法上は背任にならない条件をクリアしているのかもですが(どうなのかは知りません)、たとえば株主からすれば、そんなことに金使うのなら配当はどうなるんだよ、っていうことになりますよねえ。昔のテレビ局は上場していませんでしたが、いまは上場しています。上場企業の風上にも置けない態度じゃないですか、それ。いずれにせよ実質的な背任行為でしょう、間違いなく。
現実問題としては、もちろん内部留保はたっぷりあるし、上にもあるようにホールディングス全体では黒字なようですから、産経への援助はやめないでしょうが、それでもさすがに説明はつけにくくなっていくでしょうね。数年前、産経を売却する動きもありました。これは破談になったようですが、フジテレビからすれば産経新聞なんて「お荷物」「迷惑」な存在でしょう。なお、フジの売却の動きについては、下の記事を参照してください。
それで、問題となるのは、上にも書いたように株主への対応でしょうね。「なあなあ」で見て見ぬふりをしてくれる優しい(?)株主ばかりでは、当然ない。むしろ、こういう点で積極的に攻撃を仕掛けてくる人間だっていないわけではないわけです。
そういうことを考えていたら、こちらのサイトを知りました。
この記事執筆時点で、2015年4月28日が最後の更新とのことですが、面白いですね(笑)。株主総会でも当然このネタは使うんでしょうからね。そうすると赤字になったわけで今までにも増して非常に効果のある攻撃材料になりそうじゃないですか。これはいろいろな意味で楽しみです。もちろんフジからしても、上の筆者が書いているように
>それらの金を切ることが出来るでしょう。
ということになるかもです。もちろんこんなことは、上場企業である以上当たり前にもほどがあるというものです。
昨日帰国しました
昨日(1月2日)日本に戻ってきました。今日から仕事です。正月も満足に休めさせてくれないなんてひどい職場です。
PL学園は、野球に特化しすぎたので、野球のあとがなかった
過日、PL学園の野球部で、その絶頂の時期にプレーした方についての記事を書きました。
それで、ちょっとこの件に関連することで考えたことがあります。
私が取り上げた本
にもありますが、PL学園の野球部は、現在存続すらどうかという事態になっています。一応報道では、
>PL学園野球部存続へ 現在部員11人も17年度に部員募集再開
2015年8月30日5時0分 スポーツ報知 春夏合わせて甲子園7度の優勝を誇る高校野球の名門・PL学園(大阪)が早ければ2017年度から3年ぶりに野球部員の受け入れを再開することが29日、分かった。新入部員の受け入れを停止するなど、廃部も視野に入れていた母体のPL教団が方針を変更。専用グラウンドや室内練習場を新たに建設し、再出発することになった。 (後略)となっていますが、はたして現在の保護者がPL学園に子どもを入れようと考えるかどうかも厳しいんじゃないんですかね。存続もそう容易ではないと思います。といいますか、PL学園という高校(高等部)すら存続が難しいかもというのが現状です。こちらの記事によりますと・・・。
> 同誌によると、2月10日、大阪府富田林市にあるPL学園高校の入学試験会場は閑散としていたという。付属中学からの内部進学者を除く今年度の受験者は、国公立コースと理文選修コースを合わせた定員75人に対し、わずか28人(専願は20人)にとどまったのだという。とりわけ定員割れした理文選修コースの0.23倍という競争倍率(定員65人に15人の受験者)は、大阪府内の共学私立としては最低の数字だった(大阪私立中学校高等学校連合会のデータ)。
とあり、これでは学校の運営もままならないでしょう。ちょっと前に、テレビドラマにもなった北星学園余市高校が、入学者減少のため閉校の方向へ進んでいるという記事が流れました。
>ヤンキー先生の母校、閉校検討 北海道・北星学園余市高
2015年12月10日18時59分
全国に先がけて高校中退者の受け入れ制度をつくったことで知られる北星学園余市高校(北海道余市町)が2017年度を最後に生徒募集を停止し、19年度末に閉校する方向で検討していることがわかった。運営する学校法人北星学園の関係者が明らかにした。同校は「ヤンキー先生」こと義家弘介・文部科学副大臣の母校。
同校は1965年に開校。88年に中退者の転編入制度を導入し、全国から生徒を受け入れてきた。北星学園によると、転編入を受け入れる高校やフリースクールが増え、定員140人に対し今春の入学者が41人にとどまるなど、ここ数年は定員割れが続いていた。来春の入学状況をみて最終判断する。
PL学園も、閉校が決定したてもおかしくないというのが正直なところじゃないでしょうか。
ではなぜPL学園はこのような厳しい現状になったかです。その理由はいろいろでしょう。PL教団自体信者数の減少に苦しんでいるといいますし、いまはそれはやめたようですが、全寮制という方針も時代にそぐわなかったということでしょう。そしてそれらすべてをひっくるめた理由として、けっきょくPL学園という高校に、野球以外の魅力が乏しかったということが大きいのではないかと思います。
1987年の夏の大会での優勝のあと、PL学園は高校野球で全国優勝をするに至っていません。その理由はいろいろですが、つまりはいろいろな高校が野球部の強化に乗り出したので、PLといえどもかつてほどの好選手を集めることができなくなったのが大きな理由でしょう。ダルビッシュ有とか田中将大のような関西の出身者が東北や北海道の高校に進学するようになったのは、その大きな表れです。
そしてかつてはPL学園の不祥事も、高校野球人気とPL学園の強さと知名度で不問に付されていた部分があります。前掲書にも書かれていますように、86年に当時の2年生(立浪和義、本の著者である伊藤敬司氏らと同級生)の前途有望な生徒が池の中に入って死亡するという事件が起きています。当時は「事故死」と処理されましたが、桑田真澄の父親が、それは先輩が無理に池に入れて(ものを池に投げて「とって来い」と言った模様)、それで死亡したということを暴露しています。こんなことが表ざたになったら、野球部など即刻廃部になっても仕方ないところですが、けっきょく不問になりました。警察がしっかり捜査をしたかも定かでないですが、つまりはたぶんに見て見ぬふりがされていたのでしょう。
しかし時代が変わり、このような不祥事に対する世間の目の厳しさは格段に強くなっています。またPL学園の高校野球界での位置づけもかつてよりはるかに低くなっていますし、さらに上にも書いたように他校との競合も激しくなり、生徒数も減少し、かつての名物だった応援の人文字すらできなくなっているくらいです。
そうなると、ではなぜこのような事態になったかということになります。たぶんですが、野球部に魅力がなくなった(あるいは減少した)時点で、PL学園に入(れ)る理由が保護者・生徒ともになくなったということでしょう。つまりPL学園にそれ以外に魅力がなかったということです。
PL学園以前の野球高校というのは、例えば広島商業とか松山商業のような公立高校ならそんなに生徒数の減少ということを心配しないでもよかったわけです。もっとも昨今公立高校も再編をいろいろ余儀なくされていますが、伝統とかはともかく、公立高校だから、廃校にはなかなかならないし、極端に言えばなったって、別に教職員が失業するわけではない。
ほかにも早稲田実業とか日大二高(三高)とか東海大相模などのマンモス大学の(特別)付属高校(系属高)などならいいわけです。母体が大きいから、これも廃校にはなりにくいし、また経営上の余裕もいろいろある。
もちろん上の高校のような経営規模が大きいというわけではない野球高校もありますが、それらも多くはおそらくPLほどは野球のみに特化していなかったはず。それで決して高校の規模が大きいとはいえなかったPL学園は、野球部が廃れてしまったら、その後の変化に全く対応できなかったわけです。
ここで思いだすのが、吉野家の牛丼です。米国から牛丼用の牛肉を取り寄せいていた吉野家は、米国でのBSEの問題で輸入が不能になったために、ついには牛丼を出すことが不可能になってしまいました。これも、後になってみれば複数の国々から牛肉を取り寄せるリスクヘッジを必要としていたということでしょう。しかし吉野家は、それを怠ったために大変なことになってしまったわけです。つまりはPL学園の野球が、吉野家の牛丼の輸入先ということです。
ただこれは仕方ない点もあります。つまりPL学園ほど高校野球の強化に長期間力を入れた高校はたぶん日本になかったからです。日本で初めてのことをやれば、わからないことだらけなのは仕方ないことです。そういうわけで、ポスト野球部の学校運営について、これといった準備や対応がまるでできなかったのでしょう。いや、準備はしていたのかもですが、しかし現状を見ますと、まったくといっていいほど機能できておらず、どうしようもないといわざるを得ないでしょう。
それで他の野球高校を見てみますと、やはりいろいろ野球以外のその高校なりの「売り」を出そうとしていますね。野球部以外のスポーツに力を入れる、たとえば高知の明徳義塾は、相撲を一生懸命強化しているし、あるいは進学クラスを作って学業の方にも力を入れている高校も多い。野球部が弱くなっても、「売り」があれば、ないよりはその後の変化に対応できる。たぶんこれは、PL学園の状況を見て、それを反面教師にしている部分があるかと思います。Jリーグが、立ち上げの際に日本プロ野球(NPB)を参考にし、学ぶべきでない点、是正すべき点を研究したのと同じです。
どの高校も、野球だけで知名度を上げても将来がないと判断しているのでしょう。その判断は多分正しい。少子化の進行で、高校はどんどん休校・閉校・廃校を余儀なくされていきます。継続の意欲があるのなら、様々な強み・魅力を受験生・保護者に提起していかなければならない。そう考えれば、野球高校が野球以外のいろいろな強みを発信しているのは非常に良いことだということでしょう。
PL学園にどのような未来があるかは定かでありませんが、いずれにせよ高校野球に興味がなくても存在くらいは誰でも知っているといっても過言でない(いや、今は「知っていた」かな?)高校が非常に厳しい状況にあるというのは、いろいろな意味で考えさせられることだなと思います。
シルヴィア・クリステルの後継者(?)ミア・ニグレンの近影を知る
以前このブログで、スウェーデン人女優のミア・ニグレン(Mia Nygren)という人の写真をご紹介したことがあります。
彼女は、「エマニエル夫人」シリーズの4作目である「エマニュエル」で、シルヴィア・クリステルにかわって主人公役を演じました。彼女自身はファッションモデルで演技経験はなかったようですが、容姿がクリステルに似ていることが抜てきのポイントだったのでしょう。
その後彼女は、「ミア・ニグレン/魔性のエマニュエル」という映画に出演(1988)しますが、その後の活動は詳らかでありませんでした。1960年生まれですので、90年代以降はモデルとかは引退したのかもですが、映画出演も確認できませんし、芸能活動全体から身を引いたようでした。
が、過日ひょんなところから、彼女の近影を、といっても2012年のものですが、知ることができました。出典はこちら(魚拓)。
うーん、顔がシルヴィア・クリステルそっくりですね。似ている人間を起用したのだから、似ているのは当たり前ですが、それにしても年齢をかさねたらなおさら似ているように思います。彼女は記事中
>Mia Rickfors (då: Nygren)
と紹介されています。彼女は2012年現在スウェーデンの小都市ファールンに在住で、店舗の支配人をしており、夫と5人(!)の子どもと暮しているとのこと(この情報は、フランス語版Wikipediaより)。
顔の雰囲気からは、あまり家庭的な人にも見えませんが、彼女自身は華やかなショービジネスの世界よりは、最終的には穏やかな生活を求めたのかもしれませんね。詳細な記事の内容は、当方がスウェーデン語に不案内なためわかりませんが、これはやはり私がスウェーデン語を勉強して翻訳したほうがよいのですかね。そうすれば、このブログでも記事にさせていただいているビョルン・アンドレセンの記事にも役立ちます。
この記事が掲載された事情は不明ですが、たぶん同じ年にシルヴィア・クリステルが亡くなったことが関連しているのでしょう。私の憶測ですが、その絡みで彼女に取材が入ったのだと思います。
ミア・ニグレンについてまた情報を仕入れたら記事にします。