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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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2012-13 ベネルックス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)紀行(27)

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これがルクセンブルクの大公の屋敷です。詳しいことは知りませんが、「大公」というのは王より格が低いわけです。モナコとかリヒテンシュタインも王でなく、モナコは大公、リヒテンシュタインは「公爵」です。つまりは小国で王を名乗るわけにはいかないえらい人が「大公」とかを名乗っているわけですね。










屋敷前の土産物屋での女性。あなたの写真を撮っていいかと聞いたら、ちょっと渋りましたが、撮らしてくれました。ごめんなさいね、ブログにまで出しちゃって。




















昼食です。ホテルの食堂でしたがうまい。





























2012-13 ベネルックス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)紀行(28)

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この写真を撮ったのちに美術館に入ってみました。浮世絵を特集する展覧会です。上方方面の浮世絵を集めていまして、わが人生でこんなにたくさんの浮世絵をいちどに見たのは初めてです。写真撮影不可ですので写真はありません。


しばらくルクセンブルクの街の写真をたっぷりとお楽しみください。






























ロシアからの観光客でした。オランダではあまり見かけませんでしたが、ブリュッセルでは大勢見かけました。人口数は多いのですから、これから欧州でロシア人を見かけることは多くなってくるでしょう。「あ、きれいな人がいるな」と思ったら、ロシア語を話している、ってことはこの旅で何回か経験しました。


鉄道も遠くに見えました。すばらしい光景です。
































2013年上半期に劇場で観た映画

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2013年上半期に映画館で観た映画を発表します。五十音順です。なお、公式HPが確認できた作品については、HPをリンクしました。リンク切れはご了承ください。あるいはwikipedia、IMDbその他をリンクしました。(*)は、第3回「午前十時の映画祭」の作品、(**)は「新・午前十時の映画祭」の作品、(***)は、大島渚監督の作品です。

愛、アムール

愛と希望の街(***)

愛の亡霊(***)

明日の太陽(***)

アメリカの影

海と大陸

悦楽(***)

華麗なる賭け(*)

カサブランカ(**)

風と共に去りぬ(**)

クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち

クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち (2回目)

籠の中の乙女

御法度(***)

こわれゆく女

最初の人間

死刑弁護人

ダーティハリー(*)

太陽の墓場(***)

チャイニーズブッキーを殺した男

天使の分け前

夏の妹(***)

日本春歌孝(***)

忍者武芸帳(***)

バナナとグローブとジンベエザメ

フェイシズ(ジョン・カサヴェテス作品)

炎のランナー(**)

メリー・ポピンズ(**)

燃えよドラゴン(**)

山猫(*)

リオ・ブラボー(**)

レ・ミゼラブル

ロッキー(**)

私のベレット(***)

ジム・ケリーが亡くなった

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今日は違う記事を発表する予定だったのですが、亡くなったばかりの俳優さんについての記事を書きます。

燃えよドラゴン」に出演した黒人の米国人アクション俳優ジム・ケリーが亡くなりました。記事より。

>2013.7.1 12:19

「燃えよドラゴン」に出演のJ・ケリー氏が死去

AP通信によると、米俳優で空手家のジム・ケリー氏が6月29日、がんのためサンディエゴの自宅で死去した。67歳だった。

 ケンタッキー州で武術を学び、米国の空手の各種大会で優勝した後に映画界へ。ブルース・リーと共演した「燃えよドラゴン」(1973年)が代表作。(共同)

APの記事はこちら魚拓も。翻訳は省略します。難しい英語ではありませんから、高校生以上のあなたは読解してください。

>'Enter The Dragon' Actor Jim Kelly Dies 

June 30, 201310:22 PM

SAN DIEGO (AP) — Actor Jim Kelly, who played a glib American martial artist in "Enter the Dragon" with Bruce Lee, has died. He was 67.

Marilyn Dishman, Kelly's ex-wife, said he died Saturday of cancer at his home in San Diego.

Sporting an Afro hairstyle and sideburns, Kelly made a splash with his one-liners and fight scenes in the 1973 martial arts classic. His later films included "Three the Hard Way," "Black Belt Jones" and "Black Samurai."

During a 2010 interview with salon.com, Kelly said he started studying martial arts in 1964 in Kentucky and later moved to California where he earned a black belt in karate. He said he set his sights on becoming an actor after winning karate tournaments. He also played college football.

The role in the Bruce Lee film was his second. He had about a dozen film roles in the 1970s before his acting work tapered off. In recent years, he drew lines of autograph seekers at comic book conventions.

"It was one of the best experiences in my life," he told salon.com of working on "Enter the Dragon." "Bruce was just incredible, absolutely fantastic. I learned so much from working with him. I probably enjoyed working with Bruce more than anyone else I'd ever worked with in movies because we were both martial artists. And he was a great, great martial artist. It was very good."

ね、簡単な英語でしょ。

世間では彼は、「燃えよドラゴン」に出ていた人という以外ほとんどイメージがないと思いますが、彼はそれ以外にも映画出演はしています。日本版wikipediaの記述を借りれば・・・

>その後『燃えよドラゴン』にウイリアムス役で出演。この役は当初ロックン・ターキントンという俳優が決まっていたがなんらかの理由で降板、ボブ・ウォールがケリーを推薦し出演が決まった。『ドラゴン』の大ヒットにより空手スターとしてブレイク、ワーナーと3本の主演契約を結ぶ。

1980年代以降はハリウッドでは白人アクションスターが主流となり、俳優としての活動実績はほとんどなかったという。

とあります。つまりは彼は、おなじくブルース・リーの映画に出演したチャック・ノリスのような成功をおさめることはできませんでした。

allcinemaのジム・ケリーのページには、次の出演作品が紹介されています。

アフロ忍者 (2009)     ブルース・リー伝説 (1993)     ブルース・リー/マーシャルアーツ・マスター (1990)     ザ・リボルバー/怒りの38口径 (1982)     ブラック・サムライ (1976)     ワイルドトレイル (1975)     黄金の針 (1974)     ハードウェイ (1974)     黒帯ドラゴン (1974)     燃えよドラゴン (1973)     残酷欲情軍団 (1972)   ついでながらに書いておくと、「黒帯ドラゴン」はロバート・クローズが監督してプロデューサーをフレッド・ワイントロープポール・ヘラーがつとめる「燃えよドラゴン」のスタッフの作品です。とうぜん「燃えよドラゴン」を意識したんでしょうね。彼の映画デビューは、「残酷欲情軍団」です。映画の内容は、IMDbによると   >A slick, smooth-talking, womanizing young black DJ falls hard for an enigmatic woman he's just met. Things take a turn for the worse, though, when she is found dead in his apartment. It turns out that she was killed by the local mob, which is trying to frame him for the crime. With the police after him, he calls on some of his old acquaintances to help clear his name and avenge the woman's death.   という映画だそうです。よく日本で公開されたな。ソフト化もされていないし、当然私も見ていませんが。IMDbによると、彼の最後の出演作品は、上にもあるAfro Ninjaです。   それにしても私が「燃えよドラゴン」を「新・午前十時の映画祭」の1本として見たのが6月28日で、ケリー氏が亡くなったのが29日、日本で報道されたのが7月1日ですから、偶然とはいえちょっと複雑な気分になりました。ちょうど昨年「グッドフェローズ」の主人公のモデルになったヘンリー・ヒルをその死の直後に検索して彼の死を知って驚きすぐ記事にしたことがあります。あれ以来の驚きと偶然です。  

なお、英語版wikipediaによると、演技の世界の第一線を退いてからは、テニスのコーチとして生計を立てていたとのこと。つまりは、たいへん運動神経のいい人だったのでしょう。

こちらは晩年のお写真です。

ちょっとやつれちゃっている感がありますね。ご冥福をお祈りいたします。

けっきょく辛坊治郎は、自分がその立場になったらどうなるという想像力が欠けていたのだと思う

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辛坊治郎ヨットの太平洋横断失敗は、いろいろと話題になっています。

最初に書いておきますと、(読者の皆さまご想像の通り)いくら私が辛坊治郎を大嫌いだからといって、私は辛坊治郎が彼の遭難救援のための費用を払うべきだとかそんなことは考えませんよ。そういうことを主張したら、私がこれまた大嫌いな自己責任論者といっしょになってしまいますし、辛坊の単独行ではないのだから、相方の人にも迷惑がかかってしまいます。それは私の本意ではない。実質はともかく、いちおう話の流れとしては、今回の航海は辛坊のほうが計画に協力したっていう立場のはずだしね。

別にこのブログあるいはその他の場でもそんなことは書きはしませんでしたが、私は、辛坊治郎がヨットで太平洋横断に挑戦するということを発表した時、それって救助される立場になったらまずいんじゃないのと思いました。そうなったら、彼は立場が非常に悪くなると思ったのです。

なにしろ「自己責任」が好きな人だから、遭難でもしたらまさか救助を要請しないわけにもいかないでしょうから、救助された後で、実に格好がつかなくなるんじゃないのと思ったのです。。辛坊個人のヨットセーリングでしたらまだいいですが、協力者ばかりでなく相方のセーラーの人に迷惑をかけるわけにもいかないですから、やっぱり救助を要請しますよねえ。そして救助を要請したら、世間からの指弾はさけられないでしょう。

もちろん彼が救助を依頼する立場になるかどうかはその時点では不明でしたが、そうなってしまったらやっぱり彼は立場が悪くなりました。日ごろの自らの言論活動が彼の首を絞めたのです。仕方ないことですが、しかしやっぱりこういうことに関しては、人間ある程度発言は慎重にしたほうがよろしいですね。

ところでこんな記事を読みました。

>辛坊治郎さん遭難で、イラク人質事件の今井紀明氏がコメント

(中略)

イラク人質事件の被害者としてバッシングされた当の今井紀明氏にお話しを伺いました。事件後は道を歩いているだけで突然殴られることもあったという今井さん

だそうです。

もちろん辛坊自身がこんな愚にもつかない暴力を直接あおったわけではないにしても、けっきょくこのような社会の雰囲気をかたちづくる役割の一端を彼が担ったのは否定できないと思います。といいますか、それなりの位置を占めるでしょう。

それだったらですよ、自分がそういう立場に追い込まれないように、こんなヨット太平洋横断などというそれなりに遭難の可能性のあることにかかわらなければいい、あるいは、失敗した際に自分(たち)が受けるバッシングの覚悟がそれなりにでもできていたのかなあという気はします。私の勝手な偏見では、あんまり彼はその辺を突き詰めて考えていなかったような気がしますが、どうなんですかね。

実は辛坊は、こんな本を出版しています。

ふらっとアフガニスタン7泊8日

どうでもいい話ですが、私はこの本を読んでいます。いまのところ(そしてたぶんこれからも)辛坊の著作で読んだ唯一の本です。

読んだのはずいぶん昔ですので、正直あんまり内容は覚えていないのですが、ただアフガニスタンで殺されるとか負傷するとか武装勢力のたぐいに身柄拘束されるかすれば、たぶんどっちみち程度の問題はあれ日本政府が遺体送還や日本への帰国手配、身柄解放その他で動かざるをえないでしょう。アフガニスタンでは、旅行保険も通用しないか実効性がないでしょう。

で、辛坊は、自分がアフガニスタンに行っても絶対自分はそんな目にあうことがなく、日本政府に迷惑あるいは面倒をかけない自信でもあったんですかね。あったとしたら、それは単なる根拠のない自信でしかないんじゃないんですかね。仮の話として、辛坊が出国する際に、自分にどんなことがあっても絶対日本政府に面倒をかけさせるなという書置きや外務省その他に誓約書でも内容証明書かなにかで通知したところで、やっぱり周囲の人間は辛坊救出、あるいは遺体を日本に運ぶために動きますよね、当然。そうなれば日本政府の協力をいやがおうでも仰がざるをえないんじゃないのと思います。

自己責任だ何だというのなら、旅行するにしてもせめて旅行保険が通用する国ぐらいにしておけよといったらいいすぎかもしれませんが、アフガニスタン行きとかヨットの太平洋横断をするのなら、自己責任なんてことを主張するなよと思います。しょせんそんなことを主張したところで、自分が最悪の事態に陥った際にはやっぱり政府に助けを求めるくらいのものでしかない。けっきょく彼は、自分が同じ立場になったらどうなるという想像をしなかったか不十分だったのでしょう。いずれにせよしばらくは彼は偉そうなことを口にはしなくなるでしょうから、ほかはともかくそのことはたいへんけっこうなことです、って私もひでえこと書くな。

ところで、これはすでに削除されている出航時の辛坊のブログ記事より。こちらでブログ記事を読むことができます。いちおう魚拓も。

>それにしても今回の大阪〜福島回航は、とても実りの多いものでした。まさに「荒天」に恵まれたために、完璧に整備したと皆が思い込んでいたエオラス号にいくつかの問題点が見つかったんです。まず一つは、船の舳先に突き出ている大きな棒、これをバウスプリットって言うんですが、この根元から少量の漏水が発見されました。エオラス号には既に太平洋横断用の資材をすべて積み込んでいたために相当喫水が下がっていて、台風の余波のうねりに舳先から突っ込んで派手に海水をすくい上げる局面が何回かあったんですが、この時バウスプリットの止水に不具合があって、水が漏れることが分かったんです。

当初、この2日間で舳先をすべて解体して、充填剤を入れなおすことも計画されたんですが、様々なリスクを計算した結果、内側からの充填で対処することになりました。余程荒れた海でない限り漏水しませんし、エオラスの設備で簡単に排水できる程度のものですから、これで、まず大丈夫でしょう。

なーんか無理に出航を強行したような気がしますね。やはり予定通りの日に出航しないわけにはいかなかったんですかね。詳細は知りませんが。でも辛坊単独の航海ならまだしも、相方の人がいるんだから、もうちょっと慎重にしたほうがよかったんでしょうね、きっと。

この記事は、inti-solさんの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。

奇妙な経験

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別にそんなにすごい「奇妙な経験」というわけでもありませんが、とある平日のお昼時のエピソードということで。

某日の平日正午過ぎ、私が某JR駅の改札口となりにあるNEWDAYSから出て電車に乗ろうとした時、とあるお年寄りの女性が私に声をかけてきました。

お年寄り「お兄さん、私をドトール(コーヒー)まで連れて行ってくれないかい?」

いまさら「お兄さん」とよばれる年齢でもありませんが、それはともかく人生でそんな申し出を受けたことのない私は驚きました。

その女性は、あるいは年齢は90歳を超えているかとも思われました。つまり一人で歩くのが困難なので、そこから幅広い通路の向こうにあるドトールコーヒーへ私に手を引いてもらいたいということです。

ちょっと戸惑いましたが、別に急いでいるわけではないし、そんなことでこの女性の役に立つのなら、当然断るわけにもいきません。私は

「ちょっと待って!」

といって、財布をポケットにしまってその女性の手をとって、通路の端から端まで歩くことにしました。

その女性は

「あんまり早く歩かないでね!」

と私に言いました。もちろん私も早足で歩くわけもなく、ゆっくり歩きます。べつにそんな視線を感じたわけでもありませんが、たぶん私を見た人は、「なにやってんの、あの人」くらいに思ったかも。あるいは孫が祖母の世話をしていると思った人もいるかもしれません。

ほぼ真ん中まで歩いたところで、彼女は言いました。

お年寄り「あの柱につかまってちょっと休むわ!」

彼女自身は、とてもなれた口調でそういいました。つまりはその通路を横切る際は、いつもそうしているようです。

また歩きはじめます。彼女は「えっちらおっちら」とか言いながら歩きます。元気な人です。

彼女は

「ドトールの手前から2番目の柱につかまるのよ」

と私に言いました。で、ドトールコーヒーに行くと、なるほど、確かに彼女のいう手前から2番目の柱というのがありました。私は自動ドアを足で踏んでひらきっぱなしにして彼女を店の中に導きました。で、お年寄りを柱につかませました。

お年寄り「ありがとう、お兄さん」

私は(なぜか)彼女とハイタッチして別れました。時間にして数分ほどでしたが、なんとも奇妙な経験でした。でもお年寄りの役に立ったのだから、これは私にとっても望外の幸せというものでしょう。

ただ私って、いろんなひとからやたら道を聞かれるし(名古屋や大阪のような地元でないところから、なぜかロンドンやニューヨークでも道を聞かれます)、よく写真も撮ってくれと頼まれます。頼まれやすい雰囲気があるのでしょう。あるいはちゃんと教えてくれる、いい写真を撮ってもらえるとか期待されているんですかね。

絶句するほどひどい(拉致問題って、ここまでネタがないのかと思う)

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荒木和博が書いていることやその活動にまともに対応するのもどうかですが、しかしこれはかなりひどいと思います。荒木というか、「特定失踪者問題調査会」なる組織が行ったという記者会見についての荒木のブログ記事です。

> 平成25年7月2日
       「反物事案」について
                 特定失踪者問題調査会

 横田早紀江さんがめぐみさんの拉致された翌昭和53(1978)年、拉致未遂に遭っていた可能性がある。

 偶然ではあるが、ほぼ同時に和服の反物を売ろうとする不審な人物を過去に目撃したとの三つの情報が入ってきた。その一つは横田めぐみさんの母、早紀江さんである。もう一つは千葉県在住の男性とその母親である。これは拉致の手口の一つである可能性がある。詳細は以下の通り。

1、横田早紀江さんに関わる「反物事案」

 昭和53(1978)年3月以降(3月〜5月あるいは11月?)頃、午前中(もしくは夕方の時間帯?)に、所用(PTAないし買い物?)で早紀江さんが新潟市水道町の当時自宅から大通りに出て出かけた際に、めぐみさんが拉致されたと思われる交差点付近より少し南側、当時あったホテル前付近で、海岸の方を向いて左に寄せた乗用車(色不明)が駐車している事に直前で気付く。

 その車の側から1人の男が反物を2本手に持って「奥さん、反物の良い物が安く展示してあるので、見に来ませんか」と声を掛けて来た。近くにはもう一人の男がいた。

 男達は、背広を着用し、30代前後、身長はそれほど高くなく、どちらかと言えば きゃしゃな感じ、髪型は普通の七三分け、メガネはかけていない。日本語に不審な点は無く、気さくな感じだった。

 当時はめぐみさん失踪からまだ日も浅く、早紀江さんの心はどん底の状態でそれどころではなかった。また、早紀江さんは以前に呉服店に勤めた経験があり、展示会などを路上にて声をかけ誘う事はあり得ない、顧客には招待状を出すのが普通だという認識があり、非常に不審な感触を抱いた。めぐみさんがいなくなった直後から不審な電話などもあり、日常的に警戒心を持っていた。

 早紀江さんは怖くなり、すぐに申し出を断って、新潟大学の交差点方向へ向かった。後を付けられていないか不安であったが、後ろを振り返る事は出来なかった。用事を後回しにし、そのまま新潟中央警察へ直行。不審な人物に声を掛けられた事について通報した。車のナンバーは記憶しておらず、警察は調べておきますと対応したと言う。その後、警察からは「あれ以来そのような不審者は現れず、何でも無いですよ」と告げられた。

(後略)

横田の奥さんの話がどれくらい正確なのかどうかすら怪しい気がしますが(故意にではなくても、だいぶ以前の話でそうとう事実と記憶とが違っているんじゃないのという気がします)、こんな話のどこが北朝鮮拉致なんでしょうか。ふざけるのもいいかげんにしてほしいと思います。私が拉致被害者家族なら、「馬鹿ほざくのもいいかげんしろ」と激怒しています。なにをこんなでまかせの与太を記者会見などするのでしょうか。

それで、さらにこちらの記事もひどい。「特定失踪者」の親類の女性の体験談です。

>「反物事案」その3 

【調査会NEWS1369】(25.7.3)

 前号のニュースをご覧になった永本憲子さん(昭和56年高知県で失踪)の従姉妹、牧野由美さんから次のようなメールをいただきました。正直なところちょっとぞっとしました。 
-------------------------------------------------------------
 1985年(昭和60)年から1992(平成4)年の間のことと記憶しています。当時、私は20代から30代になる年齢でした。

 当時住んでいたアパートから最寄りの東急東横線 日吉駅に向かう途中で車から声をかけられました。男性でした。勤めていた呉服店が倒産し、呉服の在庫を抱えて困っている、安くするので見てみないかというのです。

 バンタイプの車で、中は確認しなかったと思いますが、後ろに何か荷物を載せているような雰囲気はありました。声をかけられた場所は角を曲がれば駅まで一直線。人通りもずいぶんと違います。なぜ、この場所なんだろう。ふと思ったのは駅前には交番(当時)があるからかという疑いでした。

 加えて、いくら横浜とはいえ、車で道端で声をかけて呉服を売るというのは、あまりにずさんな売り方ではないかとすぐに断りました。

 人ごみをあるけばうさんくさい勧誘を受ける都会で、数多くそんな疑いを持つ機会はありましたが、なぜか日吉でのそのシーンはよく覚えています。いただいたメールの中、自分の記憶と重なる部分がありました。警察関係者の方のご意見も読みまして、念のためにお知らせしようと思いました。

1985年から92年の7年間のうちのいつかって何よそれ、と思いますが(つまりはそんなに強く記憶に残る話ではなかったということでしょう)、こんな体験を話されたところで何の価値もありません。こんな話に「ぞっとしました」とまで書く荒木という男には絶句します。

さすがにこんな与太は産経新聞ですら記事にはしかねるでしょうし(確認した限りでは、産経その他記事にはしていません。漁船を襲って若者を拉致して中高年は船ごと沈めたとかいう話も、産経以外は記事にしませんでした)、拉致被害者家族支援者ですらどうかと思うくらいのものでしょうが、警察関係者からのメール(これだってほんとかどうかわかったもんじゃありません)を紹介した記事がこれまたひどい。その一部を。

>(前略)
反物は朝鮮半島でも歴史がある産業です。また、国内において、目をつける必要がある歴史的背景も事実存在します。それは、反物製造における在日朝鮮、在日韓国人の稼動実態です。

 戦前から全国的に在日の方に対する職業差別などがあり稼動できる職種は限られていたようです。そのなかに主たる彼らの職業として、反物製造業があります。

(中略)

もちろん、拉致未遂の被疑者が在日朝鮮、韓国人か日本人かその他外国人かはわかりません。ただ、反物製造の歴史的背景からも、また北朝鮮拉致という観点からも反物事件が拉致に密接であるならば本件被疑者が、在日朝鮮、韓国人の可能性が充分に考えられます。


>戦前から全国的に在日の方に対する職業差別などがあり稼動できる職種は限られていたようです。そのなかに主たる彼らの職業として、反物製造業があります。

というのが事実かどうか知りませんが、事実だからといって、北朝鮮工作員がそんなものに偽装して日本人拉致をするとは考えにくいでしょう。といいますかこの記述は、反物業界に対する重大な名誉毀損じゃないんですか。業界団体は抗議したっていいんじゃないの。いや、するべきでしょう。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて相手にする気もしないでしょうが、荒木とか巣食う会系の連中はそういったことにつけあがって非常識きわまりない活動をするのですから、迷惑にもほどがあるというものです。

それにしても、こんな話を記者会見までするというのはこの連中はまともじゃないですね。そんなことははじめからわかっていますが、なおさらです。拉致問題って、こんなことまで記者会見するほどネタがないのと思います。そうとうな末期状態にありませんかね。安倍晋三が首相に復帰しておいてすらこの様ですから、お話にもならないとはこのことです。どうにもならないですね。なんとも惨憺たる無残きわまりない光景です。

なおこの記事を執筆するに当たって、bogus-simotukareさんの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。

 

2012-13 ベネルックス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)紀行(29)

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仕事始めの1月4日を休むという不義理をするため、職場土産のチョコレートを買います。ベルギーのチョコレートはヴィタメールを買っているので、ルクセンブルクのチョコレートを買うわけです。ベルギーのチョコレートは食べる機会も多いでしょうが、ルクセンブルクのそれを食べる機会は日本ではベルギーのチョコレートよりは少ないでしょう。


ちなみにわりと職場では喜んでもらえたようです。私が数人の女性(やはりこのような質問をするのは女性にかぎります)「ベルギーのとルクセンブルクのチョコレート、どっちがよかった」と聞いたところ、「どちらもおいしかった」という答えが返ってきました。


なお、わずかしか買わない私に対して、友人Nは、たくさん買い込んでいました。彼はいろいろあって、大量のみやげを買うことを余儀なくされたのです。


ガイドブックに記載されているカフェで休もうとしたのですが、あいにく移転もしくは閉店したようで、適当な店に入ります。今回の旅で、私たちが最後に寄ったカフェです。














バスに乗ってルクセンブルク駅に向かいます。


駅に行く前にホテルで荷物を回収します。














途中待合室で待っていて列車に乗ろうとしたら、ホテルで付けてくれた管理用タグが外れました。すると待合室にいる複数の人が「ムシュー!!」と私に声をかけました。べつに必要もないものですが、こういうときに声をかけてくれるというのもうれしいものです。




列車に乗ります。途中いろいろな人が乗り、おります。私の前の席には、黒人の女性とこの白人の女性が乗りました。けっこう美人でしょう。写真には撮りませんでしたが、黒人女性も美女でした。

さて、明日は早めにベルギーを出国するので、本日は空港至近のホテルに泊まります。これはNが手配しました。ほかのホテルは、みな私が選んだものです。

が、私たちが買った鉄道の切符ははたして空港まで通用するのか分かりません。後になって考えれば、ルクセンブルクで切符を買う時点で、ブリュッセル空港まで買えばよかっただけの話ですが。


車掌に話を聞きます。さすがに自分のフランス語能力に自信がないので、英語でたずねました。

私「ブリュッセル空港まで、この切符で行けますか?」

車掌「大丈夫です」

確かに大丈夫って言ったぞ。Nも聞いたから、まちがいない。

北駅で降りて、空港までむかう鉄道を待ちます。ここで私ひどいうっかりをしてしまいました。しばらくして気づきます。

乗りかえのホームを確認して、空港まで行く鉄道に乗ります。

車掌が来てNが切符を見せたら・・・これではだめだとのこと。そりゃねーぜ、どっちの車掌が間違っているのか知りませんが、デタラメな話です。

追加料金を払います。どうもなあです。

駅に着きます。今回の旅最後の夕食は、遺憾ながら空港でいただきます。

そんなに遅い時間ではないのですが、すでに店はほとんどクローズでした。




けっきょくピザ屋へ行きます。セットを頼みますが・・・。

大変な失態です。コートを紛失してしまいました。ルクセンブルクからの列車で忘れたみたいです。たぶん精神的な疲労もあって注意力が低下していたのでしょう。

日本なら、当然遺失物取扱所に連絡するのですが、ここは外国で時間も遅いし、しかも明日早朝帰国です。連絡すらも断念せざるを得ません。

よかったのは、パスポートその他の貴重品はコートに入れておかなかったことです。パスポートがなければ、警察に証明書を作成してもらい、帰国のための書類を領事館に発行してもらわなければなりません。そうすると数日帰国が遅れますが、そのような最悪の事態は免れました。不幸中の幸いといわざるをえません。


シャトルバスに乗ってホテルへ。

このような部屋です。就寝します。

(つづく)


2012-13 ベネルックス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)紀行(30)

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起床します。早い便に乗るので、ホテルの朝食を食べる余裕もないし、シャトルバスの運行時間まで待つこともできません。タクシーで空港へ。












こんな早い時間でも、それなりに客はいます。












 

出国して待合室で休みます。ユーロの小銭を使うため、ベルギービールを飲みました。







BAはアムステルダム路線同様革のシートで、LCC仕様です。隣は黒人男性でした。


ヒースロー空港です。






こちらで待機します。






バスで飛行機へ。



離陸します。機内エンタテインメントシステムで、007を見ます。ボーイング777のBA007便で007を見るというのも、なかなか「おお!」という経験かも。


機内食は、重いものでなく朝食でした


正直この時点で体調をかなりくずしていて、席に座っているのも苦痛でした。私は男性だし背が高いしやせてはいないので、エコノミーの椅子はきついのです。おまけに眠ることもできず、けっこう過酷でした。






羽田に到着します。今日昼から仕事のあるNとここで分かれます。帰りの京急の車内に、東京五輪招致のポスターがべたべたはってあったのが印象的でした。これからしばらくして、少なくともレスリングの選手は笑顔でいられなくなってしまう事態になってしまいます。私は帰宅後翌日(1月5日は土曜日)日曜日まで自宅で静養しました。Nも体調をくずしたようです。よかった、休養日を1日設けて。

今回の旅は、日本人女性2人からも声をかけてもらえたし、現地女性とハグもしたし、カウントダウンも楽しかったし、よしとしましょう(コート紛失がまずかったとはいえ)。

(完)

サビーネ・リシツキの写真

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ことしのウインブルドンは、しばらくぶりに女子決勝を生中継で見ました。決勝の2人では、女性の趣味としてはサビーネ・リシツキ(Sabine Lisicki)のほうなのですが、いちおうマリオン・バルトリ(Marion Bartoli)を応援しました。バルトリには、たぶん次のチャンスはないと思ったので。もちろんサビーネちゃんのほうに再度の機会があるかどうかはわからないけどね。

サビーネちゃんを見て、「お、典型的なドイツ美女じゃん」とか考えたら、彼女はポーランド移民の娘でした(苦笑)。たしかに「リシツキ」(ただいま「利子つき」と変換されて笑ってしまいました)ってドイツの名前じゃないよね。

で、今日はそのサビーネちゃんの写真を特集します。テニスの写真は、ぜんぶ今年のウインブルドン決勝のものであることをご了承ください。

こういうきわどい写真が発表されてしまうのもテニス選手の宿命(?)です。

以下、試合後の写真を。

インタビューに答える彼女、上手とは言えない英語で一生懸命応対していました。

いずれ、彼女が勝者の立場でこの場でハグする日は来るのでしょうか。

で、以下、イベントなどに登場した彼女の写真を紹介しちゃいます。

2009年8月の彼女です。

2010年8月、上の写真のちょうど1年後の彼女です。上の方から撮っているので、脚が短く見えちゃって、これはあんまりいい写真ではありませんね。

2011年7月6日、ちょうど2年前の彼女です。

2012年6月の彼女です。いやあ、やっぱり美人はいいですね。

というわけで、これからもテニス美女を折にふれて特集しますのでお楽しみに。

同じ過労死をするのなら、ワタミよりトヨタやパナソニックでするほうがずっといいと思う

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ワタミのトップ(現在選挙の公示中ですので、いちおう固有名詞を出すのはやめておきます)が参議院選挙で自民党の比例代表候補に選ばれたというニュースは興味深いものがあります。で、この立候補のためかどうかは不明ですが(笑。確実にそのためでしょう)、自民党がブラック企業に対する公約を一部変更するとかいう話まで報じられました

>自民党の「雇用問題調査会」は4月、従業員に低賃金と長時間労働を強いているブラック企業に強く対峙する方針を打ち出していた。
〈サービス残業など法違反が疑われる企業には、労働基準監督署の立ち入り調査を行う〉〈企業名の公表について検討を行う〉と、ブラック企業名を「公表する」としていた。

 自民党の提言案に、ネット上は歓迎ムードが強かった。20代、30代の多くの若者が、ブラック企業に苦しめられているからだ。ところが、蓋を開けてみたら、自民党の公約には、ブラックのブの字も載っていないのだ。

さっそく、ネット上では、ブラック企業「ワタミ」の○○××オーナーを公認候補としたから、公約から削除したに違いない、と批判の声が渦巻いている。

「もし、ブラック企業名を公表するとなったら、真っ先に上がるのはワタミです。なにしろ、ワタミは2年連続〈ブラック企業大賞〉にノミネートされている。全社員に渡されるワタミの理念集には〈365日 24時間 死ぬまで働け〉と書かれ、その結果、長時間労働でうつ状態になった26歳の女性社員が飛び降り自殺しています。さすがに、自民党もブラック企業について公約で触れるわけにはいかなかったのでしょう」(政界関係者)(引用者注:固有名詞は隠しました)

そこまでしてこんな人を立候補させるのかよと思いますが、そこまでする価値があるんでしょうね、きっと。

事実彼は、2011年の東京都知事選にも都議会民主党の支援で立候補しているし(落選しましたが)、神奈川県の教育委員、その他複数の自治体と関係しています。このような経歴があるのだから、国政選挙に立候補すること自体はそんなに意外ではありません。これは、このような人物を知事候補に支援したり比例代表候補にする政党の見識の問題でしょう。無所属で立候補するわけじゃないわけで、しかも自民党は、比例代表で出馬させるわけですから。

さてさて、ご当人ではなく、別の外食チェーンのトップの(つまり立場上は善意の第三者にあたる)人が、ワタミ会長への批判にたいしてはげしく反論していますinti-solさんのブログで知りました。

><ブラック企業が納税する税金はブラックマネーか?その会社を信じて1万人以上の人が頑張って働いてるのよ。失礼にも程があるだろう?共産党は納税者をブラック呼ばわりするのか?>

<直接納税だけで年間30億以上も納税してる会社をブラック呼ばわりするって。政治って票を集めたらそれだけで良いのか?>

なんで善意の第三者がこんなことにここまでからむのか不明ですが、よっぽどあんた自分でもやましいことしていると思っているんじゃないのという気はします。

ところで、この人の主張にこのようなくだりがありました。

>トヨタであろうがパナソニックであろうがワタミとは比較にならない過労死や自殺者が居ますがどうしてワタミだけ特定して批判をするのでしょうか?

そういう話じゃないだろと思います。トヨタやパナソニックに過労死があっても、それはべつにワタミを免罪するような話じゃないでしょう。なにをこんな愚にもつかない主張をしているんだか。

そう考えてみると、ワタミとトヨタ、パナソニックで、社員の中の過労死する割合はどうなんでしょうね。グレーゾーンが大きいでしょうから、なかなか正確な数はわかりませんが、興味深いところはあります。ワタミの場合、離職率が高いから、過労死する前に逃げ出す人も多いでしょう。

でもですよ、この件で考えてみるに、ろくな選択ではありませんが、ワタミで過労死するのとトヨタやパナソニックで過労死するのでは、どっちがより良いでしょうか。

これはどう考えてみても、ワタミよりもトヨタやパナソニックで過労死するほうがいいですよねえ。

ワタミより、トヨタやパナソニックのほうが、遺族に対する保障や対応はずっとましでしょう。労働組合だって、トヨタやパナソニックも御用組合かもしれませんが、ワタミよりはずっとまともでしょうし(ワタミって労働組合あるんですかね? そう考えて調べてみると、wikipediaによると

>労働組合の不存在
ワタミには、労働組合は存在しない[8]。ワタミ人事部は、2008年4月に入社し過労自殺した女性と同期に入社した従業員に対し、会社説明会の席上で、「ワタミの従業員は家族であり『労使一体』であるため、労働組合が存在する必要はない」と述べている[8]。

だそうです。まあ予想通りというか、「やっぱり」という以上の話ではありません)、たぶん給料もトヨタやパナソニックのほうがいい。会社の福利厚生だって、ワタミとトヨタ・パナソニックでは、比較するのも論外というかおこがましいでしょう。

なんだかんだと言ったって、トヨタもパナソニックも創業者一家が社長をつとめたりしていたとはいえ、歴史もあるし世界企業ですから、それは昔と比べればよろしくないところはいろいろ改善はされているわけで、ワタミのように新興企業でしかも完全なワンマン体制の企業と比べればずっとまともでしょう。といいますか、そうでなければ困ります。

たぶん上に引用したトップが非常識なことをほざく会社など、社員が過労死してもワタミほどにもまともな対応はしてくれないんじゃないんですかね。していれば、上の引用のようなことは主張しないでしょう。そんなことを主張するのなら、せめてトヨタやパナソニック並みの労働環境と福利厚生と過労死の際の対応を実現してから言えなんて主張するつもりもありませんが、やっぱりこんな会社に入社したくないし、過労死もしたくないよね。よかった、私相対的にはまともなところに職があって。

inti-solさんその他のコメンテイターの皆さんにお礼を申し上げます。

自己責任が大好きな人たちも、北朝鮮拉致被害者や日揮?にはそれをもちださない(らしい)

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過日書いた辛坊治郎についての記事は、拙ブログではしばらくぶりのヒット記事となり。わりと多くの読者の方に読んでいただきました。あらためてお礼を申し上げます。

辛坊の場合、なぜ彼があそこまで厳しい指弾を受け、彼も弁明ができないかといえば、つまりは彼が以前「自己責任」めいたことを主張したからです。イラクに行って身柄拘束された人たちとヨットで外洋に出て遭難した辛坊ではまた状況は異なりますが、しかし私が記事で指摘したように辛坊はタリバン政権崩壊直後のアフガニスタンを訪れています。失礼ながら、辛坊がこの時殺害、負傷、身柄拘束その他の状況に現地で陥ってもぜんぜん不思議ではなかったはずで、そうなったら「自己責任」ではどうにもならないでしょう。自分だって危険な道を歩いているのに他人に「自己責任」を要求するのは、このヨット遭難に陥る以前で変な話です。

さて、bogus-simotukareさんからその記事に興味深いコメントをいただきました。

>自己責任論だと有本恵子氏は自業自得 (bogus-simotukare)  2013-07-03 21:36:13

ですよねえ。
さすがに拉致を予測しろってのは無茶でしょうが国交のない国に一人で行ってしまうというのは明らかにうかつでしょうから。
でもそんな事は自己責任論者は言わないわけです。「そうだ、有本は自業自得だ!」と言われても困りますけどね。

有本恵子さんは、よど号グループによって北朝鮮に拉致された女性です。で、彼女がどのように北朝鮮に行ったかといえば、別に暴力的に拉致されたわけでなく、報じられているところによればよど号グループの某女性から、「北朝鮮でマーケティング関係の仕事をしないか」と誘われたそうです。つまりはだまされたわけです。

北朝鮮に「マーケティング」なんかあるわけないだろ、そんなことを北朝鮮みたいな国であなたみたいな素人の外国人ができるわけないだろ、という以上の話ではありませんが、こんな程度の子どもだましの話に有本さんは引っかかってしまいました。

有本さんという人は、たぶんいろんなことをあまり良く知らない女性だったのでしょうが(あるていど社会的な知識があれば、さすがにマーケティングうんぬんという理由で北朝鮮には行かないと思います)、彼女が北朝鮮に入国した(拉致された)83年は、日本のパスポートは北朝鮮入国が認められていませんでした。彼女は、明々白々な旅券法違反を犯したのです。つまり彼女は、日本国の法令に反して北朝鮮に入国したわけです。もっともそんなことを言えば、本来なら北朝鮮入国時に入国用件を満たさない人間として追い返されるのが筋ですが(苦笑)。

私にとっては他人事だから苦笑ですみますが、ご本人やご家族にとってはお話にもならない事態です。これは本当に気の毒ですが、でもこれってやっぱり「自己責任」の観点からすれば問題ですよね。北朝鮮でのマーケティングなんて非常識にもほどがある話だし、そもそも当時の日本のパスポートでは入国を許可されていない国に入国したわけだから、それは法令違反であり、彼女のうかつさその他は厳しく批判されなければならないでしょう。有本さんの親御さんも、その旨の発言はしています。

でですよ、イラクの日本人身柄拘束者たちを批判した人たちは、どれくらい有本さんを批判したんですかね。国費を使ったとかいう観点で言えば、なにはともあれわりと早く決着したイラクの身柄拘束者たち(首を切断された人もふくむ)よりも、有本さんたちについて使われた税金のほうがはるかに高額じゃないんですか。暴力的に拉致された人たちでなく、有本さん同様よど号グループにだまされて北朝鮮に入国した学生たちは、どうもよど号事件犯人の奥さんたちに女性の魅力を感じて北朝鮮についていったという話もあります(これは、高沢皓司著「宿命」に出てきます)。もしこの話が事実なら、要は色仕掛けでだまされたというわけですが、これもじゅうぶん「自己責任」ですよね。色仕掛けはガセだとしても、すくなくともだまされた側にはなんの落ち度もないと主張したらそれは違うというものでしょう。今回の辛坊の遭難ていどには落ち度はあろうかと思います。すくなくともパスポートの件は、上の有本さんと同じです。

でも、彼(女)らは批判されません。なぜでしょうか。一方の当事者が「北朝鮮」「よど号グループ」で、いくらでもたたける、たたき甲斐があるから、という以外の理由は考え付かないんですけど。

私が何を言いたいかというと、つまりは自己責任論者の主張する自己責任とは、辛坊のように自分がその立場になったらすぐに助けを求めるものであったり、ご都合主義で批判を控える程度のものだということです。いつも拙ブログにコメントを下さるRawanさんご指摘のように、

>Unknown (Rawan)2013-07-03 02:44:18

所詮彼等の「自己責任論」というのは、体制側の政治信条にそぐわない行為を行なっていたかどうかで、そのリスクの正当性を測っているだけで、結局は自分が忌避する政治的行為者を貶めるための詭弁でしかありませんからね。

ということです。イラクで身柄拘束された人たちは、正直私は馬鹿だと思いますし(首を切られた人については語る言葉を持ちません)、彼(女)らが批判されるのもある程度は仕方ないと思いますが(辛坊も同じです)、すくなくともそれなら北朝鮮に拉致された何人かの人たちは、その関係で費やされた公金という観点で言えばイラクで身柄拘束された人たちよりもはるかに日本政府に迷惑をかけた、またかけているんじゃないのと私は思います。

もっとも北朝鮮非難ネタとしては、彼らの存在はたいへん好都合というご意見もあるでしょうが、それは「自己責任」の話とは無関係ですので、これ以上議論しないことにします。

最近の事例も出しましょう。今年はじめの大ニュース、アルジェリアでの日揮株式会社のプラントにおける事件はどうですかね。

これまた非常に失礼ですが、ひところの内戦の時代ほどではないにしても、アルジェリアが最高レベルに危険なところだなんて社会常識でしょう。有本恵子さんじゃないんだから、そんなことは日揮もその社員もそこと契約して働いている人たちも日本政府も重々ご承知なことです。

実際、日揮は自社の正社員以外のフリーの技術者を大勢プラントに送り込んでいたし、また彼らに多額の報酬を払っていました。つまりはそれだけ危険で、なかなか働く人間を確保するのも容易でなかったわけです。

ところで、この事件でお亡くなりになった犠牲者の方の一人は、40代で独身の方でした。想像ですが、彼も奥さんと子どもがいないという立場がアルジェリアでの仕事を選択するという一つの要因だったのかもしれないなと考えました。これは私の想像です。違っていたらすみません。

上の件の真偽はともかく、つまりは働いている人も会社も、とうぜん日本政府も、アルジェリアはものすごく危険で、本当に最悪の事態になったら、この事件のようなことが起こりかねない覚悟はしていましたよね、きっと。「そこまでは…」とか「自分に限って…」なんてのは、辛坊のアフガニスタン旅行同様に根拠のない自信でしかありません。

でも、私の知る限り、この件で「自己責任」とか言う人は、あんまりいなかったような。まったくいなかったかどうかはともかく。亡くなった方が気の毒だとかそういう話ではなく、「自己責任」とかいうのなら、この件の被害者や日揮なんか相当「自己責任」じゃないんですか。危険は承知でアルジェリアで仕事をしたり、事業を展開しているんだから。

でも日本政府は、亡くなった方々に最大限の弔意を示しました。これって理由はいろいろでしょうが、つまりは日揮のやっていることが日本の国策・国益にかなうからでしょう。弔意を示すことそれ自体を悪いとは私も考えませんが、けっきょく「自己責任」なんてそんなものでしかないと思います。日本の国策・国益に沿う(と時の政府が認識する)のであれば、批判・非難には値しない、それだけのことです。

ところで、もと日本人外交官で駐アルジェリア特命全権大使をつとめた方の著作

アルジェリア危機の10年―その終焉と再評価

(この本自体はとても面白い本です)を読んで、著者略歴に「おや」と思ったことが。この本を買ったのはずっと以前ですが、日揮の事件後に本棚から引っ張り出して気づきました。なお著者は、この本の発売(2002年2月発売)後急死されています。

>(前略)                                                                                    2001年6月外務省退官。                                                                        日揮?顧問。                                                                                (後略)

日揮が、歴代駐アルジェリア大使をみな顧問に迎えているのかどうかは知りませんが、つまりは日揮も日本政府とそのようにつながっているということです。それはそうで、アルジェリアであのような大規模な経済活動をするのなら日本政府の支援が欠かせないし、それは日本政府の国益にもかないます。当たり前の話ですけどね。

bogus-simotukareさんと、記事のヒントをいただいたinti-solさん(日揮の話は、inti-solさんのブログ記事にコメントさせていただきました)、Rawanさんに感謝いたします。

1ヶ月遅れでソウルを旅する

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前にLCCを使ってソウルを旅したいという記事を書きました。が、父が亡くなったのでそういうわけにもなくなり、この旅行はやめることにしました。6月28日出発の30日帰国予定だったのです。その代わり、1ヶ月遅れの7月末にソウルを旅することにしました。

LCCでなく今回はアシアナ航空を使います。アシアナは私の好きな航空会社です。

ところで今回は金曜発の日曜着で34,000円をわずかに超える金額です。月曜着では30,000円強でした。日曜着は高くなりますが、夏休みに突入してこの値段だから、かなり運賃が安くなっていますね。やはり日韓関係冷却化などもあり、運賃が安めになっているのかな。LCCに対抗する意味合いもあるでしょう。

今回は、せっかくなので2日目にエクスカーションをしたいと思います。どこに行くかは決めていませんが、大田大邱あたりに行ってみようかと考えます。大田で温泉に入ってもよさそうです。

ところで、ひところは仕事で定期的に某首都圏近郊温泉地に年数回行っていたのですが、仕事がかわってからはそんなこともなくなりました。最近温泉にも行っていませんが、私が行った海外の温泉は、ドイツのバーデン=バーデンかな。ブダペストでは、友人Nを残して私は街をさまよいました。私もひどい男です。あと釜山の温泉に行ったことがあったな。これは記事にしました。

日本の場合、ボーリングの技術が発達したので温泉自体は街の真ん中でも出せるようにはなりました。私の大阪での定宿(最近泊まっていないなあ)も、温泉があって、泊まる時はいつも楽しませてもらっています。

韓国で温泉を楽しむかは決めていませんが、KTXを使えば日帰りで釜山だって行けるし、ほかの街へも行くことができます。旅行記を乞うご期待。

YouTubeで昔のスポーツを楽しむ

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YouTubeの動画を私もアップしていますが、記事の読まれ方とくらべるとあまり閲覧数が多くありません。私はブログなどにYouTubeがはりつけてあるとたいてい閲覧するのですが、世のなか必ずしもそうでもないですね。私の動画は旅行のものばかりですので、そんなにコンテンツに魅力がないのかも知れません。あと女子ホッケーのロンドンオリンピック出場決定の際の動画はわりと見てもらっています。ほんとはベラルーシ美女の動画のほうを見てもらいたいんだけどね(笑)。なかなかそういうわけにもいきません。

それはともかく、YouTubeが長い時間のアップが可能になったので、けっこう「おお!」という動画が閲覧可能になっています。なかなか昔のスポーツの試合って、そう都合よくソフト化してくれるものでもないし(以前は、文藝春秋の「NUMBER」がサッカーの試合やラグビーの試合その他をソフト化して売っていました)、海外のソフトを購入するのも敷居の高いところがあります。

が、いまは実にいろいろな試合の動画がアップされていますので、たいへんありがたい時代だと思います。いくつかご紹介しましょう。

まず2002年ソルトレークシティ五輪の男子アイスホッケー準決勝ロシア対米国戦です。なぜこの動画を紹介するかというと、私が私のHNにさせていただいているNHLレフェリーであるBill McCreary氏の姿をこの試合ではじめて確認したからです。アイリッシュの名前なのに、アラブか南米の人みたいな風貌と、ずんぐりむっくりな体型ながらも軽やかなスケーティングを披露する姿が印象に残ったわけです。

Salt Lake 2002 Olympics Semifinal Russia - USA

3分58秒あたりにMcCreary氏が最初に映ります。もっとも氏は、98年の長野オリンピックの際も決勝で主審を務めているのですね。

OG '98 final - Russia vs Czech republic (22.02.1998) [English version]

彼は2002年、2010年の五輪での男子アイスホッケー決勝でも主審です。3回オリンピック決勝の主審を務めたレフェリーは、McCreary氏が空前絶後でしょう。私が何を言いたいかというと、私と違って本物のMcCrearyさんは、本当にすごい人だということです。

こちらは、2010年南アフリカワールドカップの決勝トーナメント準々決勝オランダ対ブラジル戦です。ワールドカップでは、オランダとブラジルは4戦しており、74年はオランダ勝利、94年はブラジル勝利、98年は引き分け(PK戦でブラジル決勝進出)でした。オランダとしては、36年ぶりの勝利(2-1)でした。 

Netherlands - Brazil WC 2010 Full Match (DUTCH)


南アフリカは、オランダ語に近いアフリカーンス語が公用語のひとつであるくらいで、オランダとしては戦いやすいところもあったのかもしれません。 

Rugby World Cup 1995 New Zealand vs South Africa


南アフリカつながりで、1995年ラグビーワールドカップ南アフリカ大会での(RWC)決勝南アフリカ(スプリングボクス)対ニュージーランド(オールブラックス)戦です。映画「インビクタス」の試合です。この日ばかりは、会場は仕方ないとして世界中のラグビーファンが南アフリカを応援したわけで、ニュージーランドとしても空前絶後の厳しい試合だったと思います。後半終了直前、ぜったい外しっこない位置からのドロップゴール(DG)(決まっていれば、ほとんどニュージーランドの優勝は決まっていたようなものでした)をニュージーランド選手が完全に外してしまったあたりも、この日ばかりは南アフリカにすべてが味方したということでしょう。 

カタリーナ・ビット/1988 カルガリー五輪 フリースケーティング


こちらは、1988年のカルガリー五輪での女子フィギュアスケートの東独(当時)カタリーナ・ヴィットのフリーの演技です。

2010 Winter Olympics Yuna Kim LP Gershwin Piano Concerto

たぶん次のソチ五輪では、キム・ヨナがヴィット以来の女子フィギュア連覇をしてくれるでしょう。その日が楽しみです。ヨナさんが勝つということは、誰かが金メダルを取れないということですから、私にとってこんなうれしいことはありません。

最後に、私が大好きなロングジャンパーであるスーゼン・ティートケの動画をご紹介。彼女は、「美女探求」で初めてとりあげた女性です。こんな美女が(ヴィット同様)ヌードになっちゃうんですから、ドイツっていい国です。彼女らのような旧東独出身者は裸にそんなに抵抗はないという話もあります。統一して20年以上たった今はまた時代がちがうのかもしれませんが。

1992 Summer Olympic Games Susen Tiedtke Longjump Track and Field


野球は個人的に興味がないので紹介しませんが、いろいろ面白い動画があるのは確かです。スポーツが好きなあなたは、いろいろ面白そうな動画を見つけて在りし日のアスリートの姿を楽しんでください。

今年の夏は、何カ国か周遊する旅をするつもり

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今年の夏、また旅をします。旅をする時期は、(当然ながら)父の死からあるていどタイムラグをとった時期です。夏の終わりです。

いちおう航空券は確保しました。ホテルもおさえました。どこに行くかは、また記事を書いてからのお楽しみということで。4カ国を周遊するつもりです。そんなに長期の旅でもないのに4カ国は多すぎますが、私がこのブログでご紹介したことのない国もふくまれるので、面白い旅行記になるかも。

先進国の旅ではないのでいろいろ過酷な旅になりそうですが、行ったことのない国にも行きますので、それを上回る興味が生じるかと思います。

北京やシンガポール、大連、ホーチミン、香港など、行きたいところもいろいろありますが、父の死もあり現状未定です。行けば記事にします。

というわけで、なんだかわからん旅行記をまた書きますので、お楽しみに。


泣かない男

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いい悪いという話ではなく、私は涙を流すということが、あくびとか眼球保護のために自然に流れるということ以外ない人間です。

小学生までは、たぶん平均的男児よりずっと泣き虫だったような気もしますが、中学生になってからまったく泣くことがなくなりました。その後、人生でいろいろありましたが、いまのところ泣くことがありません。

感激や悲しみを感じにくい性格なのかもしれないし、わりあい私はいろいろなことに淡々としている人間です。

中学の卒業式のとき、ぜったい涙なんか流すことのなさそうな野球部の硬派の男が大粒の涙を流していました。私は、男のくせに涙なんか流すなよと思いました。言いはしませんでしたが。いまにしてみると、ジェンダーの観点からみてもひどいことを考えていたと思います。

中学での生活は、私にとってはとくに感慨のあるものではなかったのでしょうか。私の出身高校は進学校でしたが、中学は普通の公立中学でしたので、そんなに中学校生活が居心地のいいものではなかったのかもしれません。

その後、高校、大学、大学院とすすみましたが、やはり卒業した際に涙は流しませんでした。

で、映画を見ても私泣かないんですよねえ。やっぱり感受性が悪いというか、どうなのか。

私の父が、以前言いました。

父「お前、ほんと泣かないなあ」

私「ああ、泣かないね」

身内が亡くなってもやはり涙は流れません。過日父が亡くなった時も、周りの親戚は涙を流していましたが、私は泣きませんでした。年齢的に見て、これからまもなく私の身内がかなりまとまって(昔の人たちですから兄弟姉妹の数が多いんです)亡くなるのではないかと予想されますが(いやな予想です)、たぶん涙は流れないと思います。前に亡くなった従兄や祖母のときも特に涙を流しませんでした。

私が記憶している限りでいちばん涙を流しそうになったのは、アニセー・アルヴィナが亡くなったのを知ったときと彼女のインタビュー記事を翻訳したときです。私ってほんとに彼女が好きなんだと思います。しかしこの時も泣くことはしませんでした。

あと覚えているのは、ソウルに初めて行ったとき(1997年)、明洞の地下街に50過ぎくらいの女性が物乞いで土下座していて、その背中に1歳くらいの子どもがおぶわれていたときです。子どもは、いかにも幸せそうな表情で手足をぱたぱたさせていました。いまの私ならその種のものにも慣れていますが、当時はまだ海外旅行初心者でしたので、土下座している女性はともかくその子どもの姿はとても悲しいものがありました。

で帰りに同じところを歩いたら、女性は相変わらず土下座したままで、子どものほうが(誰かが哀れんであげたのか、はじめから用意されていたのかは分かりませんが)ヤクルト(あるいはそれに類する容器に入った飲料)を両手でささげもって少し飲んで口から離して幸せそうな表情をしていたのです。

それを見た瞬間、私ものすごく悲しい気持ちになり思わずポケットに入っている小銭を投げてしまいました。

旅行に同行していた友人G君に「お金をあげた」というと「え、あげたの!」と驚いていました。

お金をあげた話は、あとレバノンのベイルートでも面白い(といっては語弊があるか)ことがありましたが、これは後日記事にしましょう。

このソウルの件は、泣く寸前までいきそうでしたが泣きませんでした。

私の勝手な想像ですが、たぶん身内が理不尽な殺されかたをしても、私は物理的には涙を流したり泣いたりはしないと思います。なんの自慢にもなりませんが。だから、こういうことを書くと人間性を疑われるでしょうけど、身内が殺されたからといってテレビの前で泣きじゃくる犯罪被害者遺族の姿は私にはとても異様というか違和感があります。同じ立場になったとしても、すくなくとも人前では私は絶対泣かないと思います。泣くとしたら、人目につかないところで泣くでしょう。

すいません、どうでもいい話です。

あるいはスポーツなどで負けた際に男子の選手が号泣する姿も、私には「泣くかなあ」という気がします。泣くほどのことではないと思います。女子の選手についてはなんとも思わないのは、私の心の中に、男が泣くのははずかしい、女が泣くのはしかたない、というステレオタイプの思考がすりこまれているからなのかもしれません。

そうこう考えると、たぶん私は感受性とか人間性とか感情の起伏が低いのでしょう。私もろくな人間じゃないと感じます。つまり私は、カミュの小説「異邦人」の主人公ムルソーみたいな人間なのでしょう。私は、もちろん人殺しはしませんが。

将来私が涙を流す日が来るのか見当もつきませんが、流す日は私が肉体的にも精神的にも老いたときだと思います。

旅先で出会った(あるいはすれちがった)女性(少女)たち

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旅をしていると、いろいろな人たちに出会います。再び会える人、二度と会うことのない人・・・いや、お亡くなりにならなければ、どこかで再会できるチャンスはあるし、(私はやっていませんが)フェイスブックでもしていれば、連絡はつけられますが、すれ違う人がほとんどですから・・・それはともかくたいていの人とは二度と顔をあわせることもないでしょうが、食堂、ホテルの従業員、店を構えている人たちの中には再会できる人もいます。

今回は、このブログで紹介したさまざまな女性たちの写真を再掲します。美女ばかりというわけではないのは、ご容赦ください。したがって今回の記事のカテゴリーは「美女探求」でなく「フォトログ」です。紹介した記事にリンクしておきます。



最初は、ライプツィヒで2005年にみかけた女性です。私のカメラを嫌がらずに撮影をゆるしていただきました。親切な女性です。この女性が、拙ブログに登場した最初の女性です。よかった、初めて登場する女性が美女で。



2005年にベルリンのブランデンブルク門付近のジェラート屋にいた店員の女性



2006年にブダペストにいた女性。当時いただいたコメントで、たぶんイタリアからの観光客ではという指摘がありました。



2007年(前の写真は、12月31日の撮影です)にブダペストにいたカップルです。映画のワンシーンみたいで、私の好きな写真です。



2009年に香港のジェイドマーケットにいた女性。このころから香港でもサービス業の女性の笑顔が増えたような気がしなくもありません。後日彼女にはこの写真をあげました。



2009年に北アイルランド(ロンドン)デリーのバスターミナルにいた女の子たち、写真を撮る私に向かって、「あんた、なーんであたしたちの写真撮るのよー」と非常に嫌そうな顔をしました。この程度ではなんとも思わない私。



同じ旅行の際、ベルファスト空港へ向かうバスに乗っていた女性です。母親らしき女性と別れていたので、あるいは帰省していたのかも。



2010年、香港のインターコンチネンタルホテルのティールームにいた女性。本業はモデルかと思うくらいすごくきれいな女性でした(そう感じていただけなければ、悪いのは彼女でなくこの写真です)。なお、ここは外の眺めが絶景なので、おすすめです。



2011年にヤンゴン中央郵便局近くにいたミャンマー人女性です。うわ、美人と驚きました。



2011年にヤンゴン川を渡るフェリーにいた物売りの女の子です。平日の昼間だったので、学校は行っているんかよと聞いたら、たまには行っているとのこと。これではいけませんね。



上の女の子の仲間。たしか11歳とか言っていました。2人ともなぜか私に懐きました。理由は不明。



同じく2011年ヤンゴンの路上にいた女性です。いかにも優しそうな私好みの女性です。翌年彼女にこの写真を渡そうとしたら、隣にいた男性はいましたが、彼女はいませんでした。いまにしてみれば、男性に写真を渡せばよかったな。



2011年にヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットにいたシャツ売りの女性です。翌年にこの写真をあげました。



上に同じ。



2012年に上海からのエクスカーションをした時、たまたまいっしょの車に乗った女性、東欧系かな? 私が聞いたことのない言語を話していました。



2012年、ヤンゴンで(なぜか)私といっしょに記念写真を撮った女性。広い世界には、このような奇特な人もいます。



2012年にヤンゴンのボージョーアウンサンマーケット付近にいた女の子、2011年のときは、白人女性などほとんど見かけることはありませんでしたが、2012年はそれなりに見かけました。



同じく、ヤンゴンのホテルのコーヒーショップにいた女性。頭のよさそうなきれいな女性です。こういう女性私大好き。



2012年台北にて、親切にしてくれた女性。台湾人は、日本人に親切です。



2012年12月31日アントワープにて。スタイルのいい女性です。



2013年、ソウルのソルロンタンの店の女性です。

本日ご紹介したのは、私が撮影した女性たちのごく一部です。これからもさまざまな人たちをご紹介するのでお楽しみに。

思いっきり浅田真央をおもいだした

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このブログで2言目に書くネタに、「自分のことを名前で呼ぶ女性大っ嫌い」という話があります。

私はすくなくとも中学生のときには、自分のことを名前で呼ぶ女性が苦手だったので、相当すじがね入りの嫌い方だと思います。

この件で私が仕入れたネタのひとつに、沖縄では自分のことを名前で呼ぶ女性が目立つという話があります。その話はネットでちょいちょい見かけます。で、とあるサイトを見てみました(書き手の方は女性ですが、ご自分では呼んでいないにしても名前呼び自体は気にしないようです)。すると興味深い記述がありました。

>もう一つ、第一人称で驚いたのは、自身のことを
「自分」
という女性が非常に多いこと。
これは、最初きいたときは本気で自衛隊勤務の方かと思った。
男性はともかく、女性が「自分」というと、本土出身者の私からすると、かなり体育会系な響きが、最初はした。(すぐ慣れたけれど)

これを読んで「おや」と思いました。これって、誰かがまさにそうですよね。

タイトルにもあるように、浅田真央はまさに自分のことを「自分」と呼んでいます。前浅田真央がNHKの歳末助け合いのPRか何かに出ていて、「私・・・」とテレビの前で話していましたが、ものすごく言いにくそうでした。ほんと自分のことを「私」って呼ぶことが好きでないみたいですね。でも自分のことをいつまでも名前では呼んでいられない…そう考えて「自分」と称しているのでしょう。

世の中広しといえど、浅田真央ほど「自分」という一人称が似合わない人もあんまりいないでしょうが、やっぱりこういうことはもっと小さいころから「外では…」と教育していかなければいけませんね。あとで困るのは親でなく子どもです。浅田匡子さんという人は、あんまりそういう教育をしなかったんですかね。

それにしても、浅田真央がなんで自分が対外的に使う第一人称を「自分」というようにしたのかその理由は知りませんが、沖縄の呼び方をまねしたかどうかはともかく、あるいは「私」という呼称は使いたくないとなると、消去法で「自分」というのが選択肢になるんですかね。その可能性はありそうです。さきほど引用した記事を書いた方は、

>第一人称として「わたし」を使い慣れておらず、かといって自分の名前を呼ぶのはちょっと恥ずかしい・・・
そんな気持ちの裏返しでは?

とお書きになっています。

以前の私は、家の中でも自分のことを名前で呼ぶべきではないと考えていましたが、最近は外ではやめるべきだと考えを変えました。上村愛子は、これからは自分のことを「愛子」でなく「私」と呼ぶことにしますと宣言したそうですが(こちらのサイトで知りました)、父の葬式でしばらくぶりに再会した親戚の中にも、社会人になったのにまだ自分のことを名前で呼んでいる人がいました。ばかばかしいのでもう注意もしませんでしたが(かつては注意したために複数の女性から嫌われました)、やっぱり高校を卒業するか社会人になったら自分のことは「私」と呼ぶのがいいと思います、最低でも家の外では。確認したら、外では「私」と呼んでいるというので少し安心しました。

が、こちらの記事で指摘したように、浅田真央も油断しているとすぐ名前が出ます。彼女は、頭の中で思考を形成する際は「真央」となるのでしょう。長洲未来は、英語では「I」でも日本語では「未来は…」となります。英語は英語、日本語は日本語なのでしょう。面白い話です。

菅氏の提訴が遅い

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読者のみなさんすでにご存じの記事を。

>民主・菅氏、安倍首相を名誉毀損で提訴=原発事故対応めぐり

時事通信 7月16日(火)16時29分配信

 民主党の菅直人元首相は16日、安倍晋三氏(自民党総裁、首相)が東京電力福島第1原発事故への菅内閣の対応を批判したメールマガジン記事に事実誤認があり、名誉を傷つけられたとして、記事の削除や謝罪を求める訴訟を東京地裁に提起した。菅氏が同日、衆院議員会館で記者会見して明らかにした。
 訴状によると、安倍氏は2011年5月20日付のメルマガ記事に、同原発事故の初動対応に関し「海水注入をとめたのは菅総理だった」「海水注入は菅総理の英断とのウソを、側近は新聞・テレビにばらまいた」などと記載した。
 これに関して菅氏は会見で、「いずれの事実も虚偽。重大な名誉毀損(きそん)だ」と主張。訴えでは、(1)記事のバックナンバーからの削除(2)謝罪記事の2年以上の掲載(3)慰謝料1100万円の支払い―を求めた。
 首相経験者が現職の首相を提訴するのは極めて異例。メルマガ掲載から2年以上が経過し、参院選(21日投開票)の期間中のタイミングで提訴したことについて菅氏は「今回の選挙からネット選挙が解禁された。何度も(間違いを)指摘したのに無視し、選挙期間に入った今日まで掲載し続けている」と説明し、「国民に誤った情報を流し続けている」と安倍氏を批判した。
 これに対し、安倍氏側はコメントを出していない。 

個人的な意見では、何をいまさらです。菅氏は、首相を辞任した際あるいは昨年の総選挙で自民党が勝った時点で提訴すべきだったでしょう。菅氏が安倍への提訴をしなかった理由はいろいろでしょうが、つまりは安倍に遠慮したということでしょう。安倍という男は、そういう他人の遠慮とかにつけこんでにつけ上がるどうしようもない馬鹿でクズですから始末に負えません。それで自民党も右翼も産経新聞も安倍に極甘ですから安倍は許されちゃいますからね。安倍でなければ首相再登板なんてありえないし、私も一カ月謹慎する必要もなかった(笑)。

それにしてもこの裁判は、行方が楽しみです。菅氏が勝てば私には最高レベルに笑えますし、負ければ、なるほど、日本の裁判というのはこういうものなのだなということが再確認できます。いずれにせよ非常に興味深いものがあります。なおbogus-simotukareさんは

>おそらく例の所長さんの病死の直後、阿比留が産経紙上で「所長氏の死にかこつけて菅氏中傷」をやったことに、ついに我慢の限界に達したのでしょうね。

指摘されています。

というわけで、いつぞやの辻元清美たいして非常に悪質な名誉毀損行為をした阿比留瑠比氏の裁判同様、私もこの裁判を注目したいと思います。また、いつもながらbogus-simotukareさんに感謝いたします。

マルティナ・ヒンギス現役復帰と、ダニエラ・ハンチュコワとのダブルスペア結成を祝って(?)

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チェコスロヴァキア(当時)出身で、現スイス国籍の元テニス選手であるマルティナ・ヒンギスがダブルスの選手として復帰するとのこと。何をいまさらという気もしますが、彼女からすると燃焼していないところがあるんですかね。記事より。

>32歳ヒンギスがダブルスで復帰「闘争心は健在」

2013.7.17 10:14

 女子テニスの元世界ランキング1位で殿堂入りを果たしたマルチナ・ヒンギス(スイス)が29日に米カリフォルニア州カールズバッドで開幕する南カリフォルニア・オープンのダブルスで復帰すると16日、大会主催者が発表した。

 32歳のヒンギスは大会のホームページで「復帰を楽しみにしている。私の闘争心は健在だ」とコメントした。2007年9月以来のツアー出場となり、ダニエラ・ハンチュコバ(スロバキア)とペアを組む。(共同)

テニスは個人競技ですから、本人が現役復帰しようと思えばできますもんね。個人スポーツですから、本人がその気になれば、活躍できるかどうかはともかく復帰はできます。するのならするで、彼女にはがんばってほしいものです。

そして私が注目したいのは、彼女のダブルスの相方がダニエラ・ハンチュコワだということです。ハンチュコワもさすがに年齢からの衰えは隠せず、世界ランクもだいぶ下に来てしまっていますが、スロヴァキアつながりで(ヒンギスはチェコ出身者だと私は長きにわたって勘違いしていましたが、彼女はスロヴァキア出身です)ペアを組むということでしょう、きっと。

そうすると、ヒンギスを美人と考えるかどうかは趣味の問題でしょうが、ハンチュコワは文句なしの美女ですから、これは(やや年増ではありますが)スロヴァキア美女ペア、とでも売り込む算段ですかね。スロヴァキア人女性は、チェコ人女性同様美女です。こんなきれいな女性がいるんだとため息がでることもしばしばです。

というわけで、ヒンギスとハンチュコワの写真をまた特集します。まずはヒンギスを。

これはわりと有名な写真。

ヒンギスでは、こういう写真はお約束です。

わりと肉感的です。

2005年のヒンギス。

2010年、馬術に挑戦するヒンギス。彼女の夫は、馬術の選手です。

2012年、オーストラリアオープンで、マリア・シャラポワと。

2013年のオーストラリアオープンにて。

2013年ウインブルドンでの彼女。

では次は、ダニエラ・ハンチュコワの写真を。

足の開き方が大胆でかっこいいですね。スタイルがよくないと、こんな写真撮るだけ恥です。

2012年に見せてくれたセミヌード。ほんとかどうかはともかく、引退したら彼女はヌードになってもいいそうです。スロヴァキア人とかチェコ人は脱ぎっぷりがいいからね。それにしても、テニスの写真よりパーティーやイベントでの写真が主になっちゃうのが、彼女らしいといったら失礼かな。まだ現役だし。

前に記事にしたテータム・オニール同様、ヒンギスも十代で人生の絶頂を迎えてしまいました。その後ヒンギスもずいぶん悔しい思いもしたでしょう。どこまでリカヴァリーできるかは難しいかもしれませんが、でも彼女が今度の復活である程度心のもやもやを吹き飛ばしてくれればとてもいいなと思います。たぶんハンチュコワも、選手生活の最晩年であることを意識しているからこそヒンギスとペアを組むのでしょう。彼女らの活躍を期待したいと思います。

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