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秦郁彦氏の百人斬り問題についての論稿が、単行本収録されていたことを知る

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ずいぶん以前ですが、産経新聞にこんな記事が掲載されたことがあります。

【歴史戦】稲田朋美・自民党政調会長 「慰安婦の次はぜひ『百人斬り報道』の訂正を」「首相70年談話は何も心配ない」

記事の内容自体は、自分たちの都合のいい話をつぎはぎしているだけのひどい代物ですが(そもそも民事訴訟で完全敗北しているのに何書いているんだかというレベルです)、こんな記事を堂々と出すというのも、さすが産経新聞です。ひどい新聞です。

 ちなみにこの記事の書き手は、

>(聞き手 阿比留瑠比、力武崇樹)

また阿比留大先生ですか(笑)。まーったくどうしようもないデマ屋です。てめえみてえに辻元清美についてのデマ記事書いて、1審敗訴で控訴もしなかった(できなかった)手合いが、よく記者稼業なんか続けられるなです。この記事については、inti-solさんの解説記事を読んでいただければじゅうぶんです。

歴史修正主義のかがみ、だな

もっとも百人斬りの話というのは、いろいろ調べるとなかなか奥が深いので、本来なら数冊本を読んだほうがいいのですが、とりあえずinti-solさんのサイトをご覧になってください。大変勉強になります。当方も、実はinti-solさんのことを、このサイトで知りました。

inti-solのページ

だいたい百人斬りの話は、民事訴訟の名誉棄損になるような話なのかというレベルです。それで、稲田インタビューで興味深いのが、稲田が秦郁彦論文について何も触れていないことです。実は、彼女が著した百人斬りの本の中でも、秦論文については触れられていません。

秦論文というのは、この百人斬り裁判の控訴審が1度の口頭弁論で結審した後(つまりこれによって、1審判決が維持されることが確実であると予想される)、当時彼が勤務していた日本大学の紀要に発表された論文です。つまり秦氏としては、自分の論文が裁判に何らかの影響を与えたと非難されるのを防ぐ意思があったのかと思います。控訴審の口頭弁論がひらかれたのが2006年2月22日、論文発表されたのが2006年2月28日発行とのこと、ほぼ同じ時のようです。もっとも入稿はそれ以前ですから、秦氏は、控訴審で原審の判決がひっくり返るなんて考えていなかったのでしょう。彼は東京大学法学部出身の元官僚(旧大蔵省)ですから、法律にも詳しい人間です。

で、そこで秦氏は1991年(というのも変な話ですが。あとでまたふれます)に彼が戦犯将校の地元である鹿児島で取材した内容を書いています。引用は、inti-solさんのサイトより。改行部分にスペースを入れました。

>次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。
また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。

裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。

安田は歌人としても知られ、教え子たちの思い出を列伝風につづっている。野田も入っていて、「一中在学五年間極めて特色のある、謂わば名物生徒・・・・・・丈は低い方であるが、健康で磊落で極めて積極的・・・・・・早くから軍人志望で剣道を励み・・・・・・」と書き出し、その後のエピソードにも触れている。
野田はビルマ独立運動を支援した南機関の参謀長としてアウンサンとともにビルマ進攻作戦に加わり、ビルマ国軍の新設とともに指導官をつとめたが、安田は「かかることは野田のはまり役」だったと回想する。終戦後、鹿児島市内のマーケットに店を出していると聞き、安田が訪ねた時はもういなかったという。「友人たちが逃亡をすすめたが応じなかったと聞くが、すでに妻女と離別しているところを見れば覚悟が定まっていたのであろう」と書いた安田は、野田の遺書の一部を紹介して筆を置いた。

その他の情報でも、野田のやや風変わりだが剛胆で芝居気のある製めん将校であったことを示す逸話が少なくない。一九三八年四月、下志津飛行学校の偵察学生に転じ、第一直協飛行隊(※)付として広東攻略作戦に参加した野田は、四〇年四月歩兵第一三三連隊の機関銃中隊長として華中戦線で勇名を博すが、部下の一人は「赤い長靴をはき、軍刀をだらりとさげ、マントを翻して先頭に立つ隊長の姿は、率いる兵力こそ僅少であれナポレオンもかくや」と回想し、「食後の運動やるか」と一言したのち抜刀した野田が単身で敵陣に切り込んで、あざやかな太刀さばきで八人をなぎ倒したと書いている。
野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。

どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい。

記事にある「志々目証言」とは、志々目彰氏が小学校在学中に戦犯将校の1人の講話を聞いて、そこで戦犯将校が(引用はこちらより)

>郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない:・・

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・

 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・

という趣旨のことを語ったという話を1971年に書いたものです。戦犯将校が自分で戦地どころか銃後の地元で吹聴しているんだから、それが報道されたからといって名誉棄損もなにもあったもんじゃないですが(ふつう自分で吹聴したことを報道されたって、それは名誉棄損にはなりませんよねえ?)、こういう話が出回っていたのに、原告側(稲田朋美が「裁判にすれば勝てる」とあおったんですけどね)は裁判を起こしたわけです。なんともどうしようもないチャレンジャーぶりです。実際この裁判で原告側は、自分で吹聴したことが報道されて、それが名誉棄損になぜなりうるかということを立証できませんでした(当たり前)。できるんだったら、論文にして発表しろです。名誉棄損訴訟に新たなる可能性をもたらす貴重な論文として注目されるでしょう(笑)。

そういうわけで、本来なら志々目証言があるのだから少なくとも戦犯将校が自分が百人斬りをしたことを認めているのは明白なわけで、この件では、秦論文は補充、さらなる追加資料という趣がありますが、とにかくさらに複数の人たちから、戦犯将校が複数の学校で同様の講話をしたことが明らかになりました。つまりさらに、この名誉棄損が成立しないことが明らかになったわけです。

それで不審なのが、稲田が上のインタビューでこの秦論文について何も触れていないことです。彼女の著作でも同じです。それはなぜなのでしょうか?(苦笑)

常識的に考えて、反論のしようがない、しても藪蛇になる、という判断をしているという以外の理由は考えにくいんですけど。稲田に、「秦論文についてどう考えるか」なんて聞いたって、まともな答えはしてくれないでしょう。何をいまさらながら稲田というのもどうしようもないクズです。この百人斬り裁判に注目して、稲田を衆議院議員(候補者)にスカウトした安倍晋三にいたっては・・・。言葉もありません(呆れ)。

いずれにせよ私の知る限り、百人斬りを否定している人で、この秦論文に真っ向から立ち向かった人は見かけないですね。しかしこの秦論文は、読むのが難しかったのです。紀要での発表ですから、紀要の入手自体が難しい。入手したりコピーを取ったりしてネットにアップロードもされましたが、やはり単行本収録されることが望ましいのは言うまでもありません。しかし長らく収録されませんでした。

が、2014年ついにこの論文を収録した本が発売されました。これを私は、2016年になってから知りました。

旧日本陸海軍の生態学 - 組織・戦闘・事件 (中公選書)

アマゾンのレビューに記されている目次を引用しますと・・・。

>第一章 統帥権独立の起源  p15
第二章 日清戦争における対東学軍事行動  p55
第三章 閔妃殺害事件の全貌  p87
第四章 再考・旅順二〇三高地攻め論争  p141
第五章 満州領有の思想的源流  p187
第六章 張作霖爆殺事件の再検討  p209
第七章 「百人斬り」事件の虚と実  p261
第八章 第二次大戦における日米の戦争指導 ー 戦争終末構想の検討  p319
第九章 ミッドウェー海戦の再考  p351
第十章 太平洋戦争末期における日本陸軍の対米戦法 ー 水際か持久か  p381
第十一章 ベトナム二百万人餓死説の実態と責任  p425
第十二章 第二次世界大戦の日本人戦没者像 ー 餓死・海没死をめぐって  p455
第十三章 軍用動物たちの戦争史  p485
第十四章 第二次大戦期の配属将校制度  p519
第十五章 旧日本軍の兵食 ー コメはパンに敗れた?  p549
あとがき p581
初出一覧 p587

別に私も、秦氏を好きではありませんが、この本はかなり面白く読めました。主に紀要に発表されたものを収録したものですが、読者の方々にもぜひおすすめしたいですね。張作霖の章、第八章、九章なども面白く読めました。百人斬りの話は第七章です。

それで私が、「おや」と思ったのが、こちらです。

>だが百人斬り事件は独立したテーマとして再調査すべきだと考えた私は一九九一年頃、両人(引用者注:この事件で死刑になった2人の戦犯将校のこと)が所属した京都歩兵第九連隊の記録にあたり、関係者へのヒアリングや問い合わせを進めた。成果は必ずしも十分とは言えなかったが、裁判になったのを機に事件の全容を再整理してみようと思い立ったのが本章である。(P.263)

ね、ね、ね、ね、ね。なんで研究成果を十何年も寝かしておいたんですか? また

>裁判になったのを機に事件の全容を再整理してみようと思い立った

って、裁判にならなかったらお蔵入りにしていたんですか? また発表するにしても、裁判の決着が事実上ついてからというタイミングにしたのは、原告に肩入れしすぎじゃないですか?

秦氏は次のように書いています。

>法廷を傍聴し、あとで判決文も読んだ著者は、双方の言い分を慎重、緻密に検討した結論だと評価するが、あえて法廷で白か黒かの二者択一を求めた原告側の戦術は賢明ではなかったという感想も抱いた。(p.313)

え、やっぱり秦氏は原告側の味方なんですかね(苦笑)。つまりは、原告側が、本気で勝訴判決をもらおうとしたかどうか疑わしいってことですけど。つまりは政治的アピールを目的とした裁判だということです。

>それにしても被告の朝日新聞が全国と支局網などを動員して、有利な新情報を収集したことがクロの印象を強め勝訴の要因になったのは、原告側には想定外だったと思われる。(同上)

そういうことでしょうね。原告側は、つまりは裁判に対する態度が甘かったということです。

しかしそれにしても、91年の調査結果をさっさと公表していれば、原告もさすがに裁判にするには至らなかったんじゃないのという疑問は生じます。もちろん強行したかもですが、でもやっぱり変ですよね、そんなの(笑)。秦氏としては、本多勝一氏らを助けるというのが気が進まなかったのかなと思います。いずれにせよ秦氏というのも、性格の悪い人間です(笑)。

百人斬りの問題については、ほかにも望月五三郎証言の話や、稲田の控訴審における爆笑ものの非常識陳述とか(私が原告なら、てめえ! いい加減にしろ!!! と怒鳴っているような代物です)、きわめて興味深い話がたくさんありますが、今日はこれくらいでやめておきます。なお稲田が著作の中で、望月氏を誹謗中傷するという、死者への名誉棄損(まさにこの裁判のテーマと重なります)をしているということを指摘しておきます。

お断り:誰も覚えていない記事でしょうが、以前私はこんな記事を書いたことがあります。

歴史修正主義者との裁判

この記事で私は、

>さて、前述のとおり、稲田朋美は、この裁判についてを著わしています。が、これは読者を誤解させる記述にみちみちている非常によろしくない本です。というわけで、この本を何回かに分けて解析することにしました。まだ日程は決まっていませんが、なるべく早く解析したいと思います。乞うご期待。

と書きましたが、現在書いていません。すみません。


「砂の器」の子役(加藤剛の少年時代を演じた人)の近影を見つけた

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午前十時の映画祭では、「砂の器」を繰り返し上映しています。今シーズンも、12月3日から30日まで上映していました。「めまい」とセット上映なのは、「宿命」というモチーフなんですかね?

この映画は、原作者の松本清張も非常に気に入っている出来で、とくに親子の放浪シーンは、原作を超えていると絶賛したくらいです。

実は、原作にはあのような放浪シーンがあるわけではなく、これは脚本の橋本忍山田洋次のオリジナルなわけですが、撮影の川又昂の絶品のカメラといい、日本中(本来なら日本海側の話ですが、茨城県や北海道などでもロケーションをしたとのこと)をまわって撮影しただけの甲斐のあったまさに日本映画史上に残るすごいシーンでしょう。

ところでこのシーンは、放浪する親子は、父親(ハンセン病を患ったという設定)が加藤嘉、息子が成人してからは加藤剛が演じていたわけですが、その少年時代を、春田和秀という子役が演じています。

実はセリフは一つもないのですが、その厳しい表情は非常に印象に残りました。

で、私は知らなかったのですが、彼は1977年に公開された「はだしのゲン 涙の爆発」にも出演しているとのこと。Wikipediaにも

>『はだしのゲン』が初めて実写映像化された作品である。製作脚本監督は3作品とも現代ぷろだくしょんの代表だった山田典吾。原作に添った形で脚本が書かれているが、主要な登場人物を演じる俳優やスタッフが各作品ごとに大幅に入れ替わっており、シリーズ物としては共通性を欠いている。シリアスで真面目なシーンに突然意味不明なギャグやコメディが挿入されたり(ゲンと隆太が、政二の絵のモデルになった際、『おそ松くん』のギャグである『シェー!』のポーズを取る。3作目では、オープニングをミュージカル風にするなど)、監督の遊び心が感じられる作品になっている。またタモリ赤塚不二夫・公開当時人気があったクシャおじさんなど多くの著名人・話題を集めた人物がカメオ出演していることなどでも評判になった。

と紹介されていてなんだかよくわからない部分もあるのですが、3作作られた作品の2作目に彼は、ゲン役で出演しています。私は勉強不足で見ていません。

こちらの記事では、

>春田さん自身も数多くの作品に出演して活躍した有名な子役の方で「がんばれ!レッドビッキーズ」や「はだしのゲン」のゲン役、「砂の器」「5年3組魔法組」等に出演していて、今でも名子役として当時を知る人の記憶に残っている方です。

とあるので、それなりに活躍された方のようですね。前に記事にした柿崎澄子とだいたい同じ世代かな。

で、上の記事の筆者は、

>春田さん自身がご自身の過去を振り返るにあたって、避けて通る事は出来ない子役時代と向き合う心の整理がついてきたことをコメントから知り、そういえば斉藤浩子さんも自身が封印していた子役時代の事をブログに書いていこうとブログを書き始めた理由を思い出して、なんというか、子役を経験し、今では違う職業についている方が、ある日、過去の自分を他人として愛しく見つめる時が来るのかな…と思ったりしました。それらを見て、なんか、過去の連続が今に繋がり、今があるのは、やはり、過去の自分が頑張って生きてきたからなのだというのを感じ取りました。

と書いておられます。たぶんこのあいだ取り上げたビョルン・アンドレセンと共通するものがありそうです。

それで、彼について検索していましたら、Facebookで近影を確認できました。登録者のみ閲覧できる部分でないところに表示してあるのなら、肖像権に問題はないと思いますので、ちょっとご紹介。

現在は、車関係の会社を経営されているようですね。そんなに子役時代と変わっていないように感じます。

子役というのは非常に特異な立場にあるので、いろいろ「どうもなあ」ということも多いのですが、春田氏は現在それなりに充実した人生を送られているようですね。氏のますますのご活躍を祈念してこの記事を終えます。 

韓国から帰ってきました

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なんとか韓国から帰ってきました。アイルランド紀行が長く続いているので記事にできるか未定ですが、明日からまた通常通りの更新体制を取ります。

いまどき文化大革命で中国を批判しても、それはあまり前向きな批判にはならない

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前にもちょっと拙ブログで取り上げた静岡大学教授楊海英という人は、ついにはこのような事態にまでなってしまいました。

第三回「国基研 日本研究賞」受賞者記念講演会(楊海英)

ずっと以前は、「国家基本問題研究所」から呼ばれた際にドタキャンするくらいの常識(?)はあったんですけどね。いや、あの時から同じような人間だったんですかね? いずれにせよいまの彼は、もう極右組織とずぶずぶの関係になったようですね。明らかに一線を越えました。

で、これとは別ですが、ご当人のお書きになっていることで「おや」と思ったことを。

> アメリカと異なって、日本はまさに思想やイデオロギーの面から中国を直視できないでいる。文革研究をする私のところにも日本の大手テレビ局のスタッフが訪ねてきて、文革の番組ができないか話し合ったことがある。

世界の最新の研究成果を取り入れなければ放送の意味がない、と私は伝えた。例えば、米シンポジウムで研究者たちは、文革の被害者が最も多かったのは内モンゴル自治区と広西チワン族自治区だった、と報告した。

 内モンゴルでは中国人(漢民族)による一方的なモンゴル人ジェノサイド(集団虐殺)が発生。広西では「階級の敵」とされた者が共産党幹部らに食される「革命的食人」が横行した事実は、今では広く知られている。

 これらは決して噂や特異例ではなく、政府公文書も含む豊富な第1次資料による研究成果だ。しかし日本のテレビ局は、その熱意をこのような事実に向けることなく番組を作ることになったそうだ。「中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい」と社内外の意見に押された結果だ、とディレクターは嘆く。

いや、そうじゃないんじゃないんですかね。日本のマスコミが文化大革命のことをあまり取り上げないのは、つまりは読者・視聴者が文革なんかに興味がないからでしょう。興味のないことをやたら取り上げるわけがない。興味がある人は、その関係の本でもネットでも自分で参照すればいいわけです。

だいたい当の楊氏が、岩波書店のような日本の左派系を代表する出版社、さらには右翼系の出版社からもどんどん本を出しているし、またそれなりの価値があると思われる司馬遼太郎賞ももらっているじゃないですか(笑)。さらには、雑誌系のサイト(上で引用した記事がそれです)で、えんえん中国批判を続けている。どこが

>中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい

なんだか。それって、自分が期待するレベルの中国批判がされていない、っていう意味なんですかね? そうだとしたら、馬鹿も休み休み言えです。こういうもののいいかたって、産経とか櫻井よしこらの発言と酷似しているじゃないですか。まあ楊氏がそんなことを本気で言うほどの狂信者だとは私は思っていませんが、これ完全なデマ屋じゃないですか。前に彼は、

>ほぼ同じようなことが先月、またもやモンゴル北東部で起こった。ブルハンガルドンという山に無断で登ろうとした中国人たちと、彼らの侵入を制止しようとした地元の遊牧民が衝突。在ウランバートル中国大使館と北京当局が「極右の民族主義団体の襲撃を受けた」と事実を歪曲して大きく喧伝したことで、ウランバートル市長も謝罪を強いられる事態となった。 

 ブルハンガルドンはモンゴル語で「神なる山」の意。遊牧民が紀元前の匈奴時代から神聖視してきた「御嶽(おんたけ)」だ。チンギス・ハンと元朝歴代の皇帝が永眠する場所もここにあるとみられている。事実、14世紀以降に神山の周辺一帯に設けられた立ち入り禁止の区域は今日まで制限が続いてきた。

書きましたが(こちらで私も論評しました)、これって態度が悪い(かどうか、それだって本当のところわかったものじゃありませんが)中国人観光客に対して、モンゴルの地元民が暴力を働いた事件です。それは、モンゴル側が謝罪するのは仕方ないでしょう。日本だって、仮の話をすれば伊勢神宮で傍若無人な態度をとる外国人観光客がいて、それを伊勢神宮の神官あるいは地元の関係者が暴行したら、それは警察だって逮捕その他取調べをするし、三重県知事なり伊勢市長なりが謝罪なり遺憾の談話をするのは当然でしょう。内心どう考えるかは別として。その他の国々だって同じようなものでしょう。サウジアラビアのような国はまた違うのかもですが、だからといったって、他国がそれをまねすることはできることではないし、するべきでもないでしょう。

さすがに日本ではそういうことは起きないでしょうが、でもこういうことを堂々と書くのでは、これでは楊氏の見識と社会常識を疑います。これも本気で書いているのではなくわざと書いているのでしょうが、いずれにせよどうしようもないにもほどがあるというものです。

それで上の件ともつながりますが、日本のマスコミが文化大革命をとりあげないのは、つまりは最終的には文革が過去のことだからでしょう。当時の中華人民共和国・中国共産党と現在のそれではずいぶん違うし、また現在中国は文化大革命を否定する立場です。別に文革を「間違っていない」とか「悪くない」と居直っているわけではない。中国で今後また文革のようなことが起きかねないというのは、あまり現実的な仮定ではないでしょう。いまの読者、視聴者が興味がある中国の問題は、中国経済の今後とか、南シナ海での問題、あるいは民族問題(チベットとかウィグルとか)でもいいですが、現在進行中の問題でしょう。文革のことなんかどうでもいいとはいわずとも(そう思っている人も大勢いるでしょう)、人権問題にしてもその他にしても、現在進行中の問題のほうがはるかに日本人に限らず世界中の人間の興味関心をひきつけるでしょう。

つまりはこれは、前にご紹介したチョムスキーの話じゃないですかね。

>君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。

ということです。

さらに別のところでチョムスキーはこうも語っています。

>世界のどこかで、例えばモンゴルで、ジンギスカンの罪が隠され、(彼の行動が)賞賛され、現在の行動のモデルに使われることがあれば、その時にこそ、ジンギスカンの罪を非難することは大きな価値があるでしょう。なぜなら、それは人類の将来の結果と関わりがあるからです。

もし現在中国政府、中国共産党が文化大革命を賛美しているのなら、文化大革命の犯罪をいろいろあげつらうことに意味がありますが、現段階そういうことはないわけです。文革の再現があったら、事実上中国経済はだめになります。そうなったら世界中の経済が大変な悪い影響を受けることになりますから、そういう事態はきわめて考えにくいでしょう。

それで現在文化大革命の問題を指摘するのであれば、それは当時の犠牲者への補償、謝罪の問題じゃないですかね。補償や謝罪がろくにされていない、不十分であるのならそれは大きな問題です。たぶんそういったことは不十分なのではないかと(勝手に)考えますが、これはまさに現在の問題だからです。

けっきょくのところ、このような問題は、ナチスのホロコースト、旧ソ連のスターリン粛清、ポルポト政権の大虐殺なども同じじゃないですかね。いや、(スケールは小さいですが)戦前日本の日本共産党などへの大弾圧、もっとさかのぼって、江戸幕府のキリスト教徒(キリシタン)大弾圧でもいいですよ。その後、同じような事態は起きていません。たとえば1989年の天安門事件だって、あれを文革と同一視しては、物事の次元が異なります。ポストスターリン時代の旧ソ連の人権侵害を、スターリン粛清といっしょにしてもしょうがないのと同じです。

余談ですが、イスラエルの作家アモス・オズは次のように語っています。彼の著書「贅沢な戦争」より。

>あなたの最後の文章は、イスラエル人占領者とナチスをそれとなく比較しておられる。この比較は扇動と曲解に満ちています。たとえば、「シャワー―といわれて何か思い出しませんか」といった言い方には、がまんがなりません。その子がイスラエルの石鹸産業のために数百万の子どもたちといっしょにガス室に送られて殺された、と言うのなら話は別ですが。(p.129)

>悪にはさまざまな程度があり、その事実に目をつぶる者は、結局のところ悪に振りまわされてしまいます。(p.131~132)

ナチスの罪とイスラエルの罪、アウシュヴィッツのシャワーと占領地のシャワーをいっしょにしてはいけないということです。日本だって、戦前の共産党への弾圧と戦後のそれをいっしょにしてはいけません。文化大革命の人権侵害と、その後の人権侵害を同一に考えても仕方ありません。

それにしてもチョムスキーといいオズといい、すごい人は語ることもすごいですね。安倍晋三の無責任発言を絶賛して、その後その自分たちの絶賛を「なかったこと」にしているらしい連中などとは、比較の対象にもなりません。

さてさて、産経新聞とか櫻井よしことか上の楊氏のようなめちゃくちゃな連中は、中国を批判するためなら何言ってもかまわないくらいの精神なのでしょうが、前にも記事にした阿部治平氏のような人物はどうなんでしょうね。彼は、少なくとも主観的には、そのようなことはしないでいるつもりじゃないんですかね。それで次のような記事はどうでしょうか。

>いままで何回か文化大革命について書いてきたが、なお言い残したことをいくらか語りたい。
私は1981年初めて中国へ行った。文革中も行きたかったが、日中友好協会だかに「文革支持」を誓わないと中国のヴィザは取れないので行かなかった。文革期には民主憲法をもつ日本人が、中国政府に代って同胞の思想・信条を検査するなどの恥ずべき仕事を公然とやったのである。

それ文化大革命の時代の話でしょ。いまはそうじゃないでしょう(笑)。それこそ上の楊氏のところでも書いたように、プンワンについてのあれだけすごい伝記を書けるくらいの取材を阿部氏は中国でできたわけじゃないですか。そんなことをいまさら書いてどうしようって言うんですかね。

だいたい彼が書いた媒体は、リベラル21という、彼個人のサイトではない媒体です。そんなことを書きたいのなら、自分のサイト(自分のブログとかFBとかツイッターとか)で書けばいいじゃないですか。もちろんこれは、こんな駄文を掲載するリベラル21の見識の問題でもあります。どちらかといえば、リベラル21のほうが問題でしょう。前に批判した、犯罪被害者遺族の妄言を無批判に垂れ流した記事は、犯罪被害者遺族より記事を執筆した記者や新聞社(あるいは講演を開催した法科大学院)のほうにより本質的な問題があると私が考えるのと同じです。

阿部氏に非常に好意的に考えれば、たぶんご当人割り切れない何かがあるのでしょう。過去のことだと見過ごすことができないのでしょう。そういう心理を理解しないではありませんが、そういう話は自分の日記か自分のサイトで書けばいいじゃないですか。彼が文革時代、その関係で不快な経験をしたなんて話は、記録とか歴史としてだったらともかく、現代中国の批判にからめて書く話じゃないでしょう。

もし阿部氏に大要「あなたの文化大革命批判は、産経新聞や櫻井よしこらのやっている中国批判と同類だ」と言ったら、彼は色をなして怒るんじゃないんですかね。あんな連中といっしょにするなって。でもどこが本質的に違うのかなあと思います。

過去を批判するのなら、それはその批判が(チョムスキーの言うように)

>人類の将来の結果と関わりがある

ものである必要があるんじゃないんですかね。文化大革命を現在批判して、そのようなものがあるのかです。

なおこの記事は、bogus-simotukareさんの複数の記事(こちらこちら)を参考にしました。いつもながら感謝を申し上げます。

ソウルと釜山の日本大使館、領事館前にある少女(従軍慰安婦)像を見学してきた

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ちょうど私が韓国にいるとき、釜山の日本領事館前に従軍慰安婦像を設置するというのが話題になりました。1度撤去されてまた設置されるというのもなかなかすさまじいものがあります。

<韓国>釜山の少女像、日本総領事館前で除幕式

毎日新聞 2016/12/31(土) 22:12配信

 【釜山(韓国南東部)大貫智子】韓国南東部・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置された問題で、市民団体は12月31日夜、総領事館前で除幕式を開いた。外国公館前の少女像設置は、2015年12月の慰安婦問題に関する日韓両政府合意に反するとして日本側は反発、韓国外務省も移転が望ましいとしているが、韓国では弾劾訴追案可決で職務停止となった朴槿恵(パク・クネ)大統領が主導した日韓合意への反対が強く、移転は困難な状況だ。

 式には女性団体や学生らが出席し「国民が勝利した。少女像を守り抜こう」などと書かれたプラカードを掲げた。少女像は地元自治体が不許可とし、28日に行政や警官らが強制撤去したが、批判の高まりを受け、30日に一転して黙認し、市民団体が設置していた。ソウルの日本大使館前の少女像移転のメドがつかない中、日韓両国の新たな火種となった形だ。

 背景には日韓合意に対する韓国世論の反発の強さがある。29日発表の世論調査(リアルメーター社)では、日韓合意を「破棄すべきだ」が59%で、「維持すべきだ」の25・5%を大きく上回った。日韓合意に基づき韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」は、合意時点で生存していた元慰安婦の7割を超える34人が、日本政府が拠出した10億円からの現金支給受け入れを表明したと発表。しかし、こうした事実はほとんど報道されていないため、「当事者無視の合意」と思われているのが実態だ。

 朴政権への批判を強める野党側は、今年行われる次期大統領選に向け合意の再交渉を掲げている。ソウル大の朴※熙(パク・チョルヒ)教授は「韓国側も努力したが残念だ。(地元自治体が)世論の批判に耐えられなかったのは、野党が主導権を握る政局の影響」と話す。(※は吉を横に2つ並べる)

最終更新:2016/12/31(土) 22:12

それで、ちょうど今回は、釜山とソウル両方に滞在する計画だったので、では両方とも見学しようと思い立ちました。

最初は1月1日の、日本大使館前にあるという少女(慰安婦)像です。日本大使館のある建物へ行きますが、しかしなかなか見つかりません。ネットで検索して地図その他とにらめっこしていたら、ようやくそれらしきものがありました。近くにいた警官に、Wikipediaにあった写真を見せると、そうだというので、行ってみます。

で、個人的な意見を言いますと、この像については、日本大使館前というより日本大使館近くに設置されている、というのが実情に近い気がしました。仮に政治合意(?)で撤去されたとしても、すぐ近くに再設置されるだけじゃないのという気がします。

それでよせばいいものをかもしれませんが、記念写真を撮ります。近くにいる人に頼みました。

近くには、慰安婦像を守っている人たちがテントを張っています。

それで私は、前に記事にしたこの件を思い出しました。

じゃあてめえら産経新聞社社員は、中国製品を使っていないのかという話になる

> 慰安婦像は韓国政府が日本との政府間合意で撤去に努力すると約束した後、これに反発する学生活動家たちが「像を守れ!」と叫んで像の横で毛布をしきビニールをかぶって寝泊まりしていた。当局がテントを張らせなかったのでそうなったのだが、これでは寒いので電気毛布で暖をとるため発電機を持ち込んだのだ。

 ところが発電機を見て驚きかつうれしくなった。発電機には何と鮮やかな文字で大きく「HONDA」とあるではないか。反日活動家が日本製の発電機で暖をとりながら日本大使館前で反日パフォーマンスをやっているのだ。

いまはテントは張ってありますが、暖房器具はあったようなので、これ日本製なのかなあと確認しようとしたのですが、あいにく見てごらんのとおりの半透明のものでしたので確認できませんでした。

翌日1月2日、釜山に行きましたので、日本領事館に行ってみると、今度はたしかに、領事館のすぐ近くに慰安婦像がありました。ただし正門前とかいうわけではありません。

2日目にして帽子やマフラーが差し入れられて(?)います。なお、写真右側の塀の向こうが日本領事館です。

こちらには、詰めている活動家とかはいませんでしたが、警官が警備していました。まあ建前としては、領事館警備なのでしょうけど。

2016年12月31日の日付があります。

これは寄付したというか、関係者の何かの碑ですかね。確認できませんでした。

釜山では、記念写真は撮りませんでした。単に頼む人がいなかったからです。さすがに警官に頼むわけにはいかない。上の写真ではけっこう何人かが周囲にいますが、この人たちが去ると、近くにいるのは警官ばかりでしたし、足を止める人もあまりいませんでした。

釜山のほうが、日本側にとっては、「挑発」と感じられるものなのかもしれません。私個人は、このようなものは「表現の自由」の範疇だと思いますが、そう思わない人もたくさんいるのでしょう。なお一番上の写真は、時事通信の記事よりいただきました。

エヴァ・グリーンのおばのマリカ・グリーンがブラピとアンジーの映画に出ていたのに驚愕する

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 最近は、女優のマリカ・グリーンは、女優のエヴァ・グリーンの伯母(エヴァの父親がマリカの弟)として知られているかと思います。かつては、「エマニエル夫人」で、シルヴィア・クリステルとレズった人というイメージが強かったでしょう。彼女は、スウェーデン出身です。

あんまりエヴァとは顔が似ていないような気がします。下のエヴァの写真をご参照ください。別にこんなでかい、しかもヌードの写真はらなくったっていいじゃんという気がしないでもありませんが、まあこういうものを見ていただくのもこのブログの楽しみということでご了承ください。しかしCGの助けを借りているのかもですが、すごい胸ですよね。圧倒されます。

もともとマリカは、ロベール・ブレッソンの「スリ」に出演したのが女優デビューです。ブレッソンは原則素人しか役者を起用しないので、これが最初で最後のブレッソン映画の出演でしたが、のちに彼女の弟(エヴァの父)もブレッソンの映画に出演しています。たぶんマリカ経由での起用なのでしょう。

さて、そんなマリカですが、95年にヘルムート・バーガー監督有名な人とは同名異人)の「Bauernschach」なるドラマに出演して以降女優活動はしていなかったのですが、過日下の映画を観ていて私は驚愕しました。


この映画に、マリカが出演していたのです。

彼女の役は、ブティックかなにかの店員役で、わずかな出演シーンでしかありませんが、私は「あれ、きれいな人だなあ」と思ったわけです。それでクレジットを見ていて、彼女の名前を見て「え! 彼女!?」と思いました。すぐiPhoneで検索したら、彼女でした。

上にリンクしたこの映画のサイトにも、彼女についての言及はなく、つまりは忘れられた女優だということなのでしょうが、20年以上ぶりくらいの復活には驚きました。

それで、どうして彼女がこの映画に出演したのかというのを考えると、どうもこの映画の撮影を、彼女の夫であるクリスティアン・ベルガーが担当しているのがその理由の一つでしょう。それであえてこの映画に顔を出したのはもちろん細かいところはわかりませんが、でも私としてはうれしく思いました。

彼女も1943年生まれですでに70代半ばですが、可能な範囲でぜひ女優活動もしていただければと思い、今日の記事を終えます。

アイルランド・英国紀行(2015年9月)(68)

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ようやく列車はコノリー駅に到着します。イースター蜂起で処刑されたジェームズ・コノリーからとられています。

プラットフォームを改札口に向かいます。

前に行ったヒューストン駅より駅の規模は小さく感じました。

出札口です。左にゲール語、右にアイルランド語です。

この標識は英語のほうが上ですね。

こちらはゲール語のほうが上です。

このような美女が歩いているとうれしくなってしまいます。

とりあえず本日予約した宿へ向かいます。

これはルアスという路面電車です。ライトレールともされます。

このスパーズで水を仕入れました。

スターバックスによってもいいですが、今は見送ります。

なかなかいい建物です。

(つづく)

アイルランド・英国紀行(2015年9月)(69)

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観光用の車両ですかね、走り去りました。

リフィー川です。

カラフルな建物です。

ダブリンを象徴する建物である税関です。

バスの停留所には、いろいろな人たちがたむろっています。

向こうに見える高架鉄道は、DART(Dublin Area Rapid Transit)です。これで郊外に行くことができます。

電車が通るまで待って撮影します。

Tara Streetというのも、いかにもアイルランドっぽい名前です。

ひたすらひいひい歩きます。

これもアイルランドっぽいというかケルトっぽいというべきなのかもですが、街にあります。

オコンネル通りです。ダニエル・オコンネルにちなんで名づけられました。コノリー駅といい、この通りといい、ダブリンでは、革命家にちなんだ名前がついていることが多いのです。

ダブリンでは、もちろんギネスを飲みまくる所存です。

繁華街のすぐ近くにも、このような裏道があります。

いよいよ今日の宿にたどり着きました。

金がないので、本日はドミトリーです。6人部屋です。実はドミデビューです。シャワー、トイレ共同です。

部屋から見下ろした光景です。

アイルランドにちなんだ人の肖像画ありました。これは誰だっけな。

これはブレンダン・ビーハン(ビーアン)です。飲んだくれの劇作家です。彼の書いた「アイルランドの反逆者」という本は面白かったな。修論で彼をテーマにしてもよかったと思います。

ガンジーとか、アイルランドとは直接関係ない人の肖像もあります。

外に出ます。アイリッシュダンスのショーを予約するので、会場のホテルに行くのです。

こちらが本日の宿です。ダブリンでは、わりと有名なホステルとのこと。

 (つづく)


アイルランド・英国紀行(2015年9月)(70)

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オコンネル通りを歩いて、アイリッシュ・ダンスの会場へ向かいます。メールや電話でも予約できるのでしょうが、まあ観光がてら歩いてみようというわけです。

ダブリンの2階建てバスはカラフルです。

バーガーキングやスタバのような国際的チェーンもありますが、ダブリンではこの種の店には入らないことにします。

意外と非白人が多く(私ももちろんその1人)、また英語以外の言語もいろいろ聞こえてきます。スペイン語をわりと耳にしました。

ギリシア風の柱がある建物が、かの高名なダブリンの中央郵便局です。イースター蜂起の際反乱側の本拠になりました。まさにアイルランドにとって革命の聖地です。

高校生の集団(?)ですが、非白人が多いのが印象に残ります。他の都市では、このようなことはありませんでした。

では中央郵便局に入ります。観光のためと、絵葉書を投函するためです。

中央郵便局の中です。

切手を買ってポストに投函します。

こちらのポストに投函しました。今回の旅行では、ダブリンの中央郵便局(GPO)で投函することに決めていました。

このように観光ツアーもあるわけです。

説明版です。やはり上にゲール語、下に英語です。

 

郵便局を出ます。

(つづく)

やっぱり下川裕治氏は、そんな初心な旅行者ではなかった(笑)

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以前こんな記事を書いたことがあります。

下川裕治氏はそんな初心な旅行者じゃないだろ

下川裕治氏とは、旅行関係に強いライター兼エディターです。で、その氏が、2001年にシンガポールを旅した際のエピソードを下の2002年に書いた本で紹介しています。

アジアほどほど旅行

シンガポールに詳しくない(?)下川氏は、空港のホテル案内所で紹介されたリーズナブルな宿へ、他のホテルへの客と一緒の送迎車両にて向かいます。すると氏が予約したホテルの所在地は、ゲイランという売春街だったわけです。

>ホテル名の先にCerryとかGeylangという名称で区別はされているが、どうもチェーンホテルのようだった。そこには住所も記されていて、すべてゲイラン地区だった。シンガポールはそれほど詳しくないから、そのエリアがどんな一体なのか想像もできなかった。(p.15~p.16)

>人生を四十七年もやっていると、ここがどんな街なのかは簡単に想像がつく。しかしここはシンガポールなのだ。これほど露骨に春を売る街があるのだろうか。疑問と驚きはやがて不安に変わっていく。

「ひょっとして・・・ここがゲイラン?」

(中略)

「このおじさん・・・」

冷たい視線が背中に痛い。

「いや、ぼ、僕は、そういう目的でここに泊まるわけじゃないの。たまたま空港のホテル予約オフィスでみつけただけなんですよ。これまで安宿ばかり泊ってきましてね。これじゃいかん、と中級ホテルを探そうとしてましてね。いや、ただそれだけなんです」

そんな弁解をしたところで、疑いが晴れるわけがなかった。(p.20~p.21)

これを読んだとき、私は面白いとは思いましたが、でもこれは作った話だと思いました。アジアを旅行し続け、アジアに詳しいたくさんの友人知人がいる下川氏が、「ゲイラン」なんていう有名なところを知らないとは考えにくいし、また万が一知らなくても、いまさらそんなことに困惑したり顔を赤らめるほど彼が純情な人間とは思えないということです。

私は当時の記事で、

>そういった経験豊富な人物が、いまさらその程度のことでショックを受けるというもちょっと無理な設定じゃないか、っていう気がします。

と書きました。

それで昨年1月こんな本が出版されました。

週末シンガポール・マレーシアでちょっと南国気分

私が本を読んだのは、昨年12月でしたが、いろいろ興味深いところがあります。

>第三章 【シンガポール】
三日目――ゲイランで不良になる

お、ゲイランについて章立てまでしているじゃないですか(喜)。これは面白そうです。

それで読んでみると、第二章に、2002年の本でのホテルの話が出てきます。

>二〇〇一年にこのチェーンホテルに泊まったことがあった。場所はやはりゲイランだった。チェーンホテルといっても、ゲイランに三軒ほどあるだけだったが(以下略)(p.41)

別に、ゲイランに困惑したなんて話は出てきません(笑)。

それで第三章に入りますと・・・

>チャンギ空港のホテル案内所に出向くと、そのリストの最下位、つまりいちばん安いホテルとしてHOTEL81があった。僕は迷わず予約を入れた記憶がある。(p.92)

まさにホテル手配の話です。さらに読みますと・・・

>はじめてゲイランを歩いたのは、二十年ほど前のように思う。(p.92)

この本が出版されたのは2016年1月で、実際には15年中に発売されたのかもですが、つまりは90年代半ばに初めて下川氏はゲイランに行ったってことですかね。ということは、やっぱり氏が01年の時点でゲイランを知らなかったなんて話は、まるっきりのフィクションだったってことですね(笑)。まあそんなことははじめっから予想がついていますが、でもこんなに堂々と過去の自分の本の記述はフィクションだったなんて書いちゃっていいのかなあという気はします。

ゲイランで困惑したエピソードを執筆したのは2002年の本で、その本はとっくに品切れ重版未定だからもう時効だっていうご判断なんですかね。過去自分が書いた記述が忘却の彼方であるなんてことでもないでしょう。

それにしてもゲイランの話なんてのは、あまりに作りであることが明々白々だとしても、正直下川さんの本にはこの種の作った話がいろいろあるんだろうなあという気はします。下川さんに、あれフィクションでしょ、あれ誇張しているんでしょ、なんて聞くわけにもいきませんが、それもどうかです。

だいたい下川氏は、特に双葉社とか徳間書店あたりから出している本の中では、非常にだらしないことが好きで優柔不断だったり小心者であるかのように自分を描写していますが、実際には彼は世界中を旅していて様々な危険な目に遭遇しているし、本の企画もこなすし、雑誌の編集長みたいなこともしたし、非常に危険な状況のアフガニスタンを取材したこともあるくらいの人間ですから、実際には相当なやり手なわけです。当然な話ですけどね。

すみません、こういう話は書かないほうがいいのかもですが、私は根性の悪い人間なので記事にしました。

ウディ・アレンによく似ている

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前にも記事にしたように、昔のスポーツの試合の動画をYouTubeとかで見たりしています。以前2004年のアテネ五輪の男子ハンドボール決勝ドイツ対クロアチア戦を見ていましたら、クロアチアの監督(ヘッドコーチ)を見て「おや」と思いました。

あれ、この人どっかで見たことあるなあとおもったら、思い出しました。この人によく似ています。

ウディ・アレンによく似ているじゃないですか。

より最近の写真を。

2010年の写真とのこと。

これは、写真の撮影年はわかりませんが、2013年の記事にあった写真です。2004年の写真のほうが似ていますね。1950年生まれだそうです。

ところで、この決勝ではクロアチアが勝って金メダルになったのですが、その直後にこんなものが映りました。

これドイツの選手がクロアチアの監督を突き飛ばしているんですかね。そうだとすると、かなりの不祥事のような気がします。いちおう下に動画を貼り付けておきます。1時間16分44秒あたりでその瞬間があります。

Handball гандбол HRVATSKA CROATIA GERMANY ATHENS OLYMPICS 2004

3月にシンガポールに行くことにした

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13日の金曜日ですが、楽しい話題を。

3月にシンガポールへ行くことにしました。昨年行きたかったのですが行けず、3月にミャンマーに行くつもりだったのですが、気分を変えてシンガポールに行くことにしました。

私も下川裕治氏と同様(?)シンガポールにあんまりいい印象を持っているわけでもないのですが、まあ初めての国なので、それなりに楽しい旅行になるかと思います。ジョホールバルへは行くつもりですが、インドネシアへは行けるかどうかわかりません。行けば、シンガポール、マレーシア、インドネシアと未体験の国3国へ行けることとなります。マレーシアは、トランジットで降りたことはありますが。

アイルランド紀行が滞っているのですが、記事にはしたいと思います。しかしいつになるか・・・。

アイルランド・英国紀行(2015年9月)(71)

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おもわず左の女性に注目してしまいます。

なかなかかっこいい女性です。

オコンネル通りを歩きます。

ゲール語のほうが、アイルランドでは格が上の言語であることを占めている標識です。

掲げられている国旗に注目します。ユニオンジャックを見かけることはありません。

ダブリンでは、公共交通ではバスも使わないわけにいきません。

塔にあるハープに注目。ハープは、アイルランドの国章にもなっています。

英国旗がないことを確認します。

高校生ですかね。やはり非白人がいます。

こういう劇場もいいですね。

さらに歩きます。

(つづく)

デヴィッド・ボウィの出演映画がまとめて公開される(あと回顧展も)

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ミュージシャンのデヴィッド・ボウィが亡くなったのは、昨年1月です。昨年の記事ですが、あらためて。

>2016-01-11 16:39 1329
デヴィッド・ボウイさん、がんで死去 69歳になったばかり

 英ロック歌手で俳優としても活躍したデヴィッド・ボウイさんが10日、死去した。8日に69歳になったばかりだった。公式Facebookによると、18ヶ月にわたってがんと闘病し、最期は家族に見守られて息を引き取った。

 ボウイさんは、1967年にアルバム『デヴィッド・ボウイ』でデビュー。『ジギー・スターダスト』(72年)、『レッツ・ダンス』(83年)の大ヒットでポップスターに君臨し、奇抜な衣装、メイクなどでも注目された。

 一方で俳優としても活躍。故・大島渚監督映画『戦場のメリークリスマス』(1983年公開)にも出演し、坂本龍一、ビートたけしらと共演した。

 ボウイさんは今月8日の69歳の誕生日にニューアルバム『★』(ブラックスター)を発売。2013年に母国・イギリスで開催された大回顧展『David Bowie is』が来年春に日本で開かれることが決定したばかりだった。

私個人は、ミュージシャンとしての彼にそんなに思い入れがあるというわけでもないのですが、俳優としての彼には、並々ならぬ興味があったというところです。日本人にとってはやはり、「戦場のメリークリスマス」でのセリアズ役の印象が強いかもですね。

そしてボウイの死から1年たち、追悼上映ということか、彼に関する映画が公開されていますので、今日はそれをご紹介。ボウィの役は、もともとロバート・レッドフォードへオファーがされていたのですが、大島渚によると、レッドフォード自身が大要「この映画は米国では受けない」みたいなことを言って出演するにいたらなかったというのです。レッドフォードの意見はたぶん正しいのでしょうが、そう考えるとボウィのようなどちらかというと役者としては特異な位置にあるというか、カルト的な映画への出演が目立つ人物のほうが、この映画にはふさわしかった(?)のかもしれません。

こちらは、ニコラス・ローグが1976年に製作した「地球に落ちて来た男」で、これが日本で現在公開中です。すでに上映が終わっちゃっているところが多いんですが、しかし京都や佐賀などは20日までやっているので、興味のある方はぜひご覧になってください。

内容は、説明してどうこうという映画でもないし、ご覧になる方はたぶんそういったことを超越して観るのでしょうからここでは特に触れませんが、ただかなり性描写が激しいので、いくらデヴィッド・ボウィとはいえよくここまでやったなという気はします。ところでキャンディ・クラークって、「アメリカン・グラフィティ」に出ている人というイメージしかなかったのですが、こういう映画にも出演していたんですね。

なお撮影のアンソニー・B・リッチモンドという人は、ゴダールの「ワン・プラス・ワン」やマイケル・リンゼイ=ホッグの「レット・イット・ビー」など、ミュージシャンのドキュメンタリー(ゴダールのほうは、ドキュメンタリーなのかな)をもこなす英国の撮影監督です。ミュージシャンつながりで起用されたわけでもないのでしょうが、ビートルズにローリング・ストーンズにデヴィッド・ボウィとは、すごいミュージシャンの映画の撮影に参加しているものです。

ほかにも彼のドキュメンタリー映画が巡回上映中です。これも終わっちゃっているところが多いのですが、東京や京都ではこれから上映があるので、これもぜひご覧になってください。HPはこちら

>ドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ・イズ』 回顧展の開幕に合わせ全国で17年1月より再上映

2016年1月に亡くなったデヴィッド・ボウイを追悼して上映されたドキュメンタリー 映画『デヴィッド・ボウイ・イズ』。今回、大回顧展「DAVID BOWIE is」の日本での開幕に合わせ、再上映されることが決定した。2017年1月7日(土)から全国で順次上映される。

イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館(以下V&A)で開催された回顧展「デヴィッド・ボウイ・イズ」は、長い歴史をもつV&Aで開催された展示会の中で史上最もチケットが入手困難な展覧会となり、150万人を動員した。映画『デヴィッ ド・ボウイ・イズ』は、瞬く間にチケットが売り切れたV&Aでのクロージング・ナイトで撮影されたものだ。

司会進行役 には本展覧会のキュレーターでもあるヴィクトリア・ブロークスとジェフリー・マーシュが務め、ステージ衣装、歌詞などの創作活動に使われたメ モ、ストーリーボード、ダイアリーなど、珍しく貴重な資料や当時の衣装などにまつわるストーリーを明かす。監督はロンドン・オリンピックの生中継や第82回アカデミー賞の監督も手掛けたハミッシュ・ハミルトン。

11月にイタリアでの開催を終了し、ついに2017年1月に日本でも開幕を迎える大回顧展。本ドキュメンタリーを展覧会の予習、復習として合わせて観ると、よりリアルに「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」デヴィッド・ボウイを感じることができるだろう。

さらに彼のライヴの映画も公開されます。記事を。

>デヴィッド・ボウイのライブ映画「ジギ-・スターダスト」が、約18年ぶりに劇場公開される。

本作は、ボウイが1973年7月にロンドンで行ったライブの模様を収録したコンサートフィルム。「ボブ・ディラン:ノー・ディレクション・ホーム」「ソウル・サヴァイヴァー」のD・A・ペネベイカーが監督を務め、山本寛斎が衣装を担当した。今回上映されるバージョンでは、全曲に新訳の歌詞字幕が挿入されている。

YouTubeにて公開された予告編には、当時グラムロックの象徴的な存在だったボウイが華やかで妖しいパフォーマンスを繰り広げる姿を収録。熱狂するオーディエンスに向かって「今日のショーは一生忘れないだろう。なぜならバンド最後のステージだからだ」と告げる場面も映し出される。

「ジギ-・スターダスト」は、2017年1月14日より東京・新宿K's cinemaほか全国にて順次公開。

いずれにせよこのような映画を劇場で観られるのは大きなチャンスです。読者の皆様におかれましても、ぜひご覧になってください。ミュージシャンの出る映画、ライヴ映画なども、やはり映画を語る上で外せないジャンルです。

さて、そうなると、彼の回顧展というのは、絶対見ないわけにはいきませんね。

DAVID BOWIE is | デヴィッド・ボウイ大回顧展

もちろん私も見に行きます。読者の皆様もぜひどうぞ。デヴィッド・ボウィの世界を堪能しようではありませんか。

アイルランド・英国紀行(2015年9月)(72)

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正面のホテルが、アイリッシュダンスの会場です。

やはり英国旗はありません。

やはりホテルの目玉のようですので、これでもかとばかりいろいろ宣伝しています。

レセプションでチケットを購入します。

当日が楽しみです。

またオコンネル通りを歩くことにします。

左のようなカラフルな建物もいいですね。

グレシャム・ホテルのような、ダブリンを代表する高級ホテルも、やはりアイルランドの国旗とEUの旗以外は掲げません。

観光案内所です。今日はスルー。

ちょっと横道(タルボット通り)にそれると、銅像のまわりに人がたむろっていますね。

ジェイムズ・ジョイスの銅像です。Wikipediaにも、この銅像の写真はあります。岩波文庫の「ダブリンの市民」(私も持っていきました)の表紙にも使われたりと、わりと有名です。

やはりダブリンといえばジョイス、といっていいかもしれません。

上とだいたい同じアングルですが、露出がわりときれいな写真なので、私の好みです。

 さらに歩きます。

(つづく)


浅野ゆう子の健全な写真を楽しもう(1)

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拙ブログには、浅野ゆう子というタグがありまして、私がネット上で収集したさまざまな彼女の大胆な水着やセミヌード(といったって、ヘアがうっすら見えているようなものもあります)の写真をご紹介してきましたし、また買い集めたグッズの写真もご紹介してきました。こちらこちらです。が、しかし彼女は、1978年くらいまでは(つまり彼女が18歳以前は)それなりに清純(げ)というか、なかなか健全な写真もいろいろ発表してきました。それらの写真も捨てたものではないので発表します。しかしそれらを見ていると、え、こんな写真を撮っていた人が、数年後はああなっちゃうの、という気はします。芸能界というのもすごいところです。なお彼女は1960年7月9日生まれですので、誕生日の問題はありますが、原則西暦マイナス1960で以下年齢を換算します。

74年の写真。この写真を見て、私はこの記事を書くことを決意しました。けっこう本気で、この写真には惚れこんじゃいました。

1974年12月9日号。

1976年1月号。

1976年5月27日号。これは健全というより、メイク、表情ともに相当大人びた路線を狙っていますね。

1976年8月6日号。「セクシー」と書いていますが、まだおとなしい感じですよね。

1976年10月25日号。

1977年2月4日号。

1977年7月11日号。

1977年10月号。まだ17歳ですが、これは髪型といい表情といい、だいぶ大人びています。

1974年5月25日発売。ちょっと口にするのもはずかしい題名です。上のはアルバム?

77年4月発売。

同じく7月発売のアルバム。

順番が前後しますが、76年8月のアルバムより。でも16歳には見えないな。

続きは明日。

浅野ゆう子の健全な写真を楽しもう(2)

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上の中身ですかね。歌の題名を見ても、まるっきりのアイドル歌謡です。

非常に表情とかは健全ですが、スカートの短さその他は、やはり健全な世界から離れつつあります。

76年のアルバムより。16歳ですが、だいぶ雰囲気は大人っぽいですね。

74年のセカンドシングル。

写真は、上のアルバムと同じフォトセッションですかね。

75年のシングルより。服装が、のちの彼女のイメージとはだいぶ違います。

年齢は不詳ですが、たぶん16歳以前の時の写真。テレフォンカードですかね。

74年12月のサードシングル。

75年の5番目のシングル。髪型と服装は、ちょっとなあと個人的には考えます。

75年の6番目のシングル。美脚を見せているあたり、そろそろ脱皮というところですかね。

そうは見えないかもですが、77年の写真。

 以上3枚撮影時不詳ですが、ブロマイドの写真。

どうでしょうか。清純・純情・健全(かどうか知りませんが)な浅野ゆう子もなかなかいいでしょう。個人的には、74年のガキっぽい写真がいいかなと思います。

それでは上にあげた曲の動画をいくつか張り付けて、この記事を終えます。

とびだせ初恋 浅野ゆう子(1974)

これはかなり脚を強調した衣装ですね。動画を見ていただければわかりますが、これは台に乗っているという演出です。それからはりつけた画像ではわかりにくいですが、彼女はカチューシャをつけています。カチューシャをつけた14歳の浅野ゆう子というのは、なかなか侮れないかわいさです。昨日の私が感動した写真をご覧になってください。

「青い誘惑」 浅野ゆう子

しかしこの歌、歌詞を見るとかなりすごいですね。とても15歳の女の子が歌う歌には思えません(苦笑)。服装といい、髪型といい、そちらのほうはおとなしめなんですけどね。

やっぱりこの当時から事務所は、彼女が一定の年齢になったらそっちの方向で売ろうと決めていたんですかね(苦笑)。やっぱり「健全」じゃないか(苦笑)。

篠田正浩監督「沈黙 SILENCE」を観よう

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いよいよ土曜から、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙 -サイレンス-」が公開されます。話題にもなっているかと思います。

それで、この映画は遠藤周作の小説を原作としていますが、ご存知の方も多いでしょうが、この小説はすでに1度映画化されています。1971年の東宝製作の「沈黙 SILENCE」です。篠田正浩監督、篠田作品の常連(奥さんだからね)である岩下志麻丹波哲郎戸浦六宏らが出演しています。遺憾ながら私もまだ観ていません。

なお主人公を演じたのはデイヴィッド・ランプソン(David Lampson)という無名俳優です。調べてみましたが、あまり活動が見えません。もちろん英語版Wikipediaにも名はなく、わずかにIMDbに名が見られるくらいしか情報がありませんでした。

 

こちらの記事に掲載されている公開当時のパンフレットによると詩人であり作詞家であり前衛演劇をやっていると書かれています。またこちらによると英国出身で、この映画に出演したさいはもっぱらロサンゼルスで活動していたようですね。しかしその後彼が出演したドラマや映画は英国制作のようなので、あるいは英国に戻ったのかもです。70年代なかばで映画・テレビ関係の俳優活動はしていないようです(舞台などでの活動はあるかもしれません)。

そもそも主演をはれる格の俳優ではなかったのでしょうが、たぶんこの映画への主演が彼の最初で最後の大きな役になったようです。現在存命しているかも定かでありませんが、たぶん彼あるいはその関係者は、スコセッシ監督で自分が出演した映画と同じ原作の映画が製作、公開されるというのにはそれなりの感慨があるんじゃないんですかね。

いずれにせよ当時は、日本製作の映画では思い切って有名な俳優を招聘するというのは、特にこの「沈黙 SILENCE」のような映画ではできなかったんでしょうね。そういった日本映画でしか活躍できなかった外国人俳優たちについて調べてもそれなりに興味深そうです。

 

それでこの篠田作品ですが、2005年にDVDが発売されたものの、現在絶版状態のようで、Amazonなどでも高く取引されています。あるいは近日中に廉価で再発売されるかもですが、現段階やや敷居の高い価格です。

しかしスコセッシ作品の公開にあわせて、この篠田作品を観る機会にめぐまれます。まずは劇場公開から。来週22日、24日、26日とやや変則的な日程での公開ですが、都内の早稲田松竹で同じ遠藤原作の」「海と毒薬」とのセットで観ることができます。変則な公開の仕方ですのでご注意ください(別の日には、スコセッシの映画が公開されます)。

「沈黙 SILENCE」と「海と毒薬」を同じ日に観たら思いっきり精神が欝になりそうですが、どちらも35mmフィルムによる上映ですので、かなり貴重な機会かと思います。ぜひどうぞ。

映画館に見に行けない人は、日本映画専門チャンネルでこの映画が放送されるので観ることができます。

3回の放送予定ですかね。もちろん映画館で観るほうが好ましいには決まっていますが、しかしCSで観るのも良いチャンスです。加入している方はもちろん、していない方も、これを観るだけで1か月だけ加入するのも悪くないのかなと思います。私もかつて、ジェーン・バーキンのライヴや「透明ドリちゃん」、好きな某芸能人の出演ドラマを観るために特定のチャンネルと契約したことがあります。

ところで「沈黙 SILENCE」は、遠藤周作が脚本【脚色)を担当しています(篠田と共作)。遠藤原作の映画は何回も製作されていますが(ただし遠藤の死の翌年の97年の「愛する」(原作は、「わたしが・棄てた・女」)以降は、今回のスコセッシ作品まで製作はないようです。遠藤の小説も過去の小説になったのかなという気はします)、脚色を担当したのは、この映画が最初で最後のようです。その理由については私も調べていないのでよくわかりませんが、やはりそれなりの思い入れはあったのだろうなと思います。この映画のパンフレットや当時の映画雑誌を参照したり、遠藤についての著作なども確認してみても面白そうです。

もちろん私も、両方とも映画を観るつもりだし、また原作も読んでいないので(すみません)、いろいろ楽しみたいと思います。

一部スポーツ選手の親も、同じようなことをしている

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過日当方のような人間が大喜びしそうな記事がありました。

>「芸能活動優先」娘を通学させず 容疑の母親を書類送検

2017年1月18日12時25分

 芸能活動を優先するなどとして中学生の娘(15)を通学させなかったとして、大阪府警は18日、学校教育法(就学させる義務)違反容疑で母親(44)=東京都町田市=を大阪地検堺支部に書類送検し、発表した。娘はプロダクションに登録してアイドルとしてライブ活動を行い、映像をネットに投稿していたという。

 黒山署によると、母親は大阪府大阪狭山市に住んでいた2016年2~7月、娘を1度も学校に行かせなかった疑いがある。市教育委員会は計6回、通学を求める督促状を送付。母親は「芸能活動をしたいという娘の意思を尊重したかった」と話しているという。署は「いじめや病気などの事情はなく、通学させない理由はない」としている。

>いじめや病気などの事情はなく、通学させない理由はない

はいはいさようでございます。まさに正論ごもっとも。いじめや病気もないのに学校に通わせないなんて、最低最悪、親のクズですね。こういう人間こそが、最低に軽蔑すべき人間です。学校教育法には、

> 第十六条  保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は、次条に定めるところにより、子に九年の普通教育を受けさせる義務を負う。

とあります。

 それでこの記事についていたはてなブックマークを。人気のあるブックマークです。

>hevohevo 児童労働で虐待という扱いかな。たとえ子供が通学を望まなかったとしても、保護者は、自宅または学校以外の場において学習の場と時間を整える必要があるよね。

komamixkomamix これ芸能っていう低く見られがちでステージママにもマイナスイメージがある業界だから異議が出ないけど例えば錦織圭とか大谷翔平クラスのスポーツ選手なら世論はどう反応したか気になる/二人は例えよ

udongergeudongerge うっかり「芸能活動」がどうやらそんなに順調じゃない点を愉快がって本来の問題点から目を逸らし「誰だよ」とか罵倒することに体重が移動してしまっている人はちょっとマズいので気をつけましょう。

maturimaturi 義務教育の義務を課せられるのは親

wideanglewideangle 芸能といえば聞こえはいいが児童労働か…… 

kaionjikaionji まともなプロダクションなら学校に行かせると思う

AKIMOTOAKIMOTO 娘の収入をあてにして、本人の意思で学校行きたくないと思い込むようにコントロールしていた可能性とかかな。この記事だけじゃわからんな

それでさあ、自分の子どもを学校に全然通わせなかった人って、好き嫌いはともかくとして日本人の中でも最高レベルに知名度の高い人の親でもいるよねえ。

 

浅田真央の母親、故浅田匡子さんです。

ほかにも亀田の親父とかいろいろいますが、連中のやっていることは、刑事事件になったってなんら文句の言えないレベルの悪行だということです。そういうことを私たちはしっかり認識しないといけないということです。

アイルランド・英国紀行(2015年9月)(73)

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通りの向こうから中央郵便局を観ます。

なかなかかっこいい女性です。

女子高校生も歩いています。

女性が観光案内人に何かを聞いています。

あらためて写真を見て、英国旗が描かれていることに気づきました。アイルランドでは、めったに見ることがありません。

これがアイルランド演劇のメッカ、中心、命であるアビー(アベイ)座です。

やはり英国旗はありません。

これはオコンネルの像ですかね。

ではさらに旅を続けます。

(つづく)

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