ずいぶん以前ですが、産経新聞にこんな記事が掲載されたことがあります。
【歴史戦】稲田朋美・自民党政調会長 「慰安婦の次はぜひ『百人斬り報道』の訂正を」「首相70年談話は何も心配ない」
記事の内容自体は、自分たちの都合のいい話をつぎはぎしているだけのひどい代物ですが(そもそも民事訴訟で完全敗北しているのに何書いているんだかというレベルです)、こんな記事を堂々と出すというのも、さすが産経新聞です。ひどい新聞です。
ちなみにこの記事の書き手は、
>(聞き手 阿比留瑠比、力武崇樹)
また阿比留大先生ですか(笑)。まーったくどうしようもないデマ屋です。てめえみてえに辻元清美についてのデマ記事書いて、1審敗訴で控訴もしなかった(できなかった)手合いが、よく記者稼業なんか続けられるなです。この記事については、inti-solさんの解説記事を読んでいただければじゅうぶんです。
もっとも百人斬りの話というのは、いろいろ調べるとなかなか奥が深いので、本来なら数冊本を読んだほうがいいのですが、とりあえずinti-solさんのサイトをご覧になってください。大変勉強になります。当方も、実はinti-solさんのことを、このサイトで知りました。
だいたい百人斬りの話は、民事訴訟の名誉棄損になるような話なのかというレベルです。それで、稲田インタビューで興味深いのが、稲田が秦郁彦論文について何も触れていないことです。実は、彼女が著した百人斬りの本の中でも、秦論文については触れられていません。
秦論文というのは、この百人斬り裁判の控訴審が1度の口頭弁論で結審した後(つまりこれによって、1審判決が維持されることが確実であると予想される)、当時彼が勤務していた日本大学の紀要に発表された論文です。つまり秦氏としては、自分の論文が裁判に何らかの影響を与えたと非難されるのを防ぐ意思があったのかと思います。控訴審の口頭弁論がひらかれたのが2006年2月22日、論文発表されたのが2006年2月28日発行とのこと、ほぼ同じ時のようです。もっとも入稿はそれ以前ですから、秦氏は、控訴審で原審の判決がひっくり返るなんて考えていなかったのでしょう。彼は東京大学法学部出身の元官僚(旧大蔵省)ですから、法律にも詳しい人間です。
で、そこで秦氏は1991年(というのも変な話ですが。あとでまたふれます)に彼が戦犯将校の地元である鹿児島で取材した内容を書いています。引用は、inti-solさんのサイトより。改行部分にスペースを入れました。
>次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。
また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。
裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。
安田は歌人としても知られ、教え子たちの思い出を列伝風につづっている。野田も入っていて、「一中在学五年間極めて特色のある、謂わば名物生徒・・・・・・丈は低い方であるが、健康で磊落で極めて積極的・・・・・・早くから軍人志望で剣道を励み・・・・・・」と書き出し、その後のエピソードにも触れている。
野田はビルマ独立運動を支援した南機関の参謀長としてアウンサンとともにビルマ進攻作戦に加わり、ビルマ国軍の新設とともに指導官をつとめたが、安田は「かかることは野田のはまり役」だったと回想する。終戦後、鹿児島市内のマーケットに店を出していると聞き、安田が訪ねた時はもういなかったという。「友人たちが逃亡をすすめたが応じなかったと聞くが、すでに妻女と離別しているところを見れば覚悟が定まっていたのであろう」と書いた安田は、野田の遺書の一部を紹介して筆を置いた。
その他の情報でも、野田のやや風変わりだが剛胆で芝居気のある製めん将校であったことを示す逸話が少なくない。一九三八年四月、下志津飛行学校の偵察学生に転じ、第一直協飛行隊(※)付として広東攻略作戦に参加した野田は、四〇年四月歩兵第一三三連隊の機関銃中隊長として華中戦線で勇名を博すが、部下の一人は「赤い長靴をはき、軍刀をだらりとさげ、マントを翻して先頭に立つ隊長の姿は、率いる兵力こそ僅少であれナポレオンもかくや」と回想し、「食後の運動やるか」と一言したのち抜刀した野田が単身で敵陣に切り込んで、あざやかな太刀さばきで八人をなぎ倒したと書いている。
野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。
どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい。
記事にある「志々目証言」とは、志々目彰氏が小学校在学中に戦犯将校の1人の講話を聞いて、そこで戦犯将校が(引用はこちらより)
>郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・
実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない:・・
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・
という趣旨のことを語ったという話を1971年に書いたものです。戦犯将校が自分で戦地どころか銃後の地元で吹聴しているんだから、それが報道されたからといって名誉棄損もなにもあったもんじゃないですが(ふつう自分で吹聴したことを報道されたって、それは名誉棄損にはなりませんよねえ?)、こういう話が出回っていたのに、原告側(稲田朋美が「裁判にすれば勝てる」とあおったんですけどね)は裁判を起こしたわけです。なんともどうしようもないチャレンジャーぶりです。実際この裁判で原告側は、自分で吹聴したことが報道されて、それが名誉棄損になぜなりうるかということを立証できませんでした(当たり前)。できるんだったら、論文にして発表しろです。名誉棄損訴訟に新たなる可能性をもたらす貴重な論文として注目されるでしょう(笑)。
そういうわけで、本来なら志々目証言があるのだから少なくとも戦犯将校が自分が百人斬りをしたことを認めているのは明白なわけで、この件では、秦論文は補充、さらなる追加資料という趣がありますが、とにかくさらに複数の人たちから、戦犯将校が複数の学校で同様の講話をしたことが明らかになりました。つまりさらに、この名誉棄損が成立しないことが明らかになったわけです。
それで不審なのが、稲田が上のインタビューでこの秦論文について何も触れていないことです。彼女の著作でも同じです。それはなぜなのでしょうか?(苦笑)
常識的に考えて、反論のしようがない、しても藪蛇になる、という判断をしているという以外の理由は考えにくいんですけど。稲田に、「秦論文についてどう考えるか」なんて聞いたって、まともな答えはしてくれないでしょう。何をいまさらながら稲田というのもどうしようもないクズです。この百人斬り裁判に注目して、稲田を衆議院議員(候補者)にスカウトした安倍晋三にいたっては・・・。言葉もありません(呆れ)。
いずれにせよ私の知る限り、百人斬りを否定している人で、この秦論文に真っ向から立ち向かった人は見かけないですね。しかしこの秦論文は、読むのが難しかったのです。紀要での発表ですから、紀要の入手自体が難しい。入手したりコピーを取ったりしてネットにアップロードもされましたが、やはり単行本収録されることが望ましいのは言うまでもありません。しかし長らく収録されませんでした。
が、2014年ついにこの論文を収録した本が発売されました。これを私は、2016年になってから知りました。
アマゾンのレビューに記されている目次を引用しますと・・・。
>第一章 統帥権独立の起源 p15
第二章 日清戦争における対東学軍事行動 p55
第三章 閔妃殺害事件の全貌 p87
第四章 再考・旅順二〇三高地攻め論争 p141
第五章 満州領有の思想的源流 p187
第六章 張作霖爆殺事件の再検討 p209
第七章 「百人斬り」事件の虚と実 p261
第八章 第二次大戦における日米の戦争指導 ー 戦争終末構想の検討 p319
第九章 ミッドウェー海戦の再考 p351
第十章 太平洋戦争末期における日本陸軍の対米戦法 ー 水際か持久か p381
第十一章 ベトナム二百万人餓死説の実態と責任 p425
第十二章 第二次世界大戦の日本人戦没者像 ー 餓死・海没死をめぐって p455
第十三章 軍用動物たちの戦争史 p485
第十四章 第二次大戦期の配属将校制度 p519
第十五章 旧日本軍の兵食 ー コメはパンに敗れた? p549
あとがき p581
初出一覧 p587
別に私も、秦氏を好きではありませんが、この本はかなり面白く読めました。主に紀要に発表されたものを収録したものですが、読者の方々にもぜひおすすめしたいですね。張作霖の章、第八章、九章なども面白く読めました。百人斬りの話は第七章です。
それで私が、「おや」と思ったのが、こちらです。
>だが百人斬り事件は独立したテーマとして再調査すべきだと考えた私は一九九一年頃、両人(引用者注:この事件で死刑になった2人の戦犯将校のこと)が所属した京都歩兵第九連隊の記録にあたり、関係者へのヒアリングや問い合わせを進めた。成果は必ずしも十分とは言えなかったが、裁判になったのを機に事件の全容を再整理してみようと思い立ったのが本章である。(P.263)
ね、ね、ね、ね、ね。なんで研究成果を十何年も寝かしておいたんですか? また
>裁判になったのを機に事件の全容を再整理してみようと思い立った
って、裁判にならなかったらお蔵入りにしていたんですか? また発表するにしても、裁判の決着が事実上ついてからというタイミングにしたのは、原告に肩入れしすぎじゃないですか?
秦氏は次のように書いています。
>法廷を傍聴し、あとで判決文も読んだ著者は、双方の言い分を慎重、緻密に検討した結論だと評価するが、あえて法廷で白か黒かの二者択一を求めた原告側の戦術は賢明ではなかったという感想も抱いた。(p.313)
え、やっぱり秦氏は原告側の味方なんですかね(苦笑)。つまりは、原告側が、本気で勝訴判決をもらおうとしたかどうか疑わしいってことですけど。つまりは政治的アピールを目的とした裁判だということです。
>それにしても被告の朝日新聞が全国と支局網などを動員して、有利な新情報を収集したことがクロの印象を強め勝訴の要因になったのは、原告側には想定外だったと思われる。(同上)
そういうことでしょうね。原告側は、つまりは裁判に対する態度が甘かったということです。
しかしそれにしても、91年の調査結果をさっさと公表していれば、原告もさすがに裁判にするには至らなかったんじゃないのという疑問は生じます。もちろん強行したかもですが、でもやっぱり変ですよね、そんなの(笑)。秦氏としては、本多勝一氏らを助けるというのが気が進まなかったのかなと思います。いずれにせよ秦氏というのも、性格の悪い人間です(笑)。
百人斬りの問題については、ほかにも望月五三郎証言の話や、稲田の控訴審における爆笑ものの非常識陳述とか(私が原告なら、てめえ! いい加減にしろ!!! と怒鳴っているような代物です)、きわめて興味深い話がたくさんありますが、今日はこれくらいでやめておきます。なお稲田が著作の中で、望月氏を誹謗中傷するという、死者への名誉棄損(まさにこの裁判のテーマと重なります)をしているということを指摘しておきます。
お断り:誰も覚えていない記事でしょうが、以前私はこんな記事を書いたことがあります。
歴史修正主義者との裁判この記事で私は、
>さて、前述のとおり、稲田朋美は、この裁判について本を著わしています。が、これは読者を誤解させる記述にみちみちている非常によろしくない本です。というわけで、この本を何回かに分けて解析することにしました。まだ日程は決まっていませんが、なるべく早く解析したいと思います。乞うご期待。
と書きましたが、現在書いていません。すみません。