過日、調べごとをしていて、「俺たちは天使だ!」→沖雅也(主演)→日景忠男(養父)となったら、日景氏が2015年に亡くなっていることを知りました。それでその報道をしている記事を読むと、「どうもなあ」と思わざるを得ませんでした。
>「沖雅也」が涅槃で待った「日景忠男」晩年の煩悩
(前略)
「忠男は、昨年2月に亡くなりました。最後まで面倒を見たのは姉です。葬式も行われなかったと聞いています」(親族の一人)
(中略)
当時、沖に掛けていた保険金は3億円。沖の事務所が受取人になっていた。
「元々、保険金は1億円しか掛けていなかった。ところが、日景が知らないうちに保険会社の担当者が3億円に設定し直したといいます。それで、期せずして高額なお金を手に入れたのです。後日、日景は現金3億円をベッドに敷き詰め、その上に寝っころがったとか。その時、『これが沖の全てだ!』と思わず口にしたそうです」
だが、沖の実母と遺産の分配で揉め、数千万円を和解金として支払った。新宿2丁目でゲイ喫茶を始めたため、運転資金も必要となり、日景氏の手元に残ったのは2億円程だったという。
「彼は気前はいいものの、物凄い浪費家。保険金でベンツやティファニーなど超高級な調度品を買い漁っていた。海外旅行に行っては、1泊17万円する部屋に1カ月泊ったこともありました。沖が亡くなって3年で保険金を全部使い果たしてしまったんです。その後、知人の会社社長から2億円借り、マニラに別荘を建てたこともあります。でも、その借金も踏み倒し、社長は激怒していました」
ゲイ喫茶の経営も鳴かず飛ばずであった。02年5月、店を閉じるはめになる。
「最後はテナント料を700万円ほど滞納していた。借金でクビが回らなくなり、沖と暮らしていたマンションも差し押さえられることに。調度品も売り払い、中野のアパートに引っ越すことになったのです」
この知人は、当時、イタリアンレストランを経営していた。03年、日景氏の窮状を見かね、声を掛けたという。
「五反田は風俗店が多いわりに、案内所が少なかったんです。そこで無料案内所を一緒にやらないかと持ちかけ、私が社長で日景を専務にし、会社を立ち上げました。儲かり始めると、彼は経理をやると言い出したのです」
だが、日景氏は05年12月、覚せい剤取締法違反で逮捕され、役員を退任させられる。
そして08年秋、再び同じ容疑で逮捕され、懲役1年2月の判決が確定した。
「後からわかったのですが、日景は店の売上げを2億円近く横領していました。しかも、その後、彼はアパートから品川のタワーマンションに引っ越したのです。税務署からは申告漏れの指摘を受けるし、会社も解散に追い込まれた。世話になったこともあったが、本当に酷い目にあった。それで彼とは縁が切れたのです」
(後略)
「特別ワイド 吉日凶日60年の証言者」より
週刊新潮2016年3月3日号 掲載
この記事が事実であれば、日景という人は病的な浪費癖だったようですね。それもどうかです。他人に迷惑をかけるのもいい加減にしろという気はします。だから葬儀も行ってもらえないのです。どうしようもないクズです。最後は本当に刑務所に入ったのですから、限界を超えちゃったということです。Wikipediaにも
>放蕩息子のような生活を送っていた
と本人が語っていたと記されています。
それで、犯罪の次元は違いますが、浪費というので私が思い出したのが、この殺人事件です。
>夕張保険金殺人事件
(前略)
事件の背景
犯人のH(逮捕当時41歳)は、1943年(昭和18年)に様似郡様似町の7人兄弟の6番目として産まれた。家族が夕張市へ移住した6歳の時に父を失い、母子家庭で育ったHは兄たちの影響で非行を繰り返した。小学6年生の時に教護院に入り、15歳までをそこで過ごし、その後はトラック運転手や炭鉱労働者、調理師見習いなどを経て、17歳ごろから暴力団員として活動するようになった。1969年(昭和44年)に結婚して、子供ももうけた。
Hの妻(逮捕当時38歳)は、1946年(昭和21年)に7人兄妹の4女として夕張市で産まれた。高校時代には不良として地元では有名だったが、卒業後は上京して美容師学校に1年間通った。その後夕張に戻り、交際していた暴力団員と結婚。1児をもうけたが、夫はガンで死亡。市内のバーでホステスをしていた際にHと知り合い、2人は1972年(昭和47年)に再婚した。
2人は1970年(昭和45年)頃から、三菱大夕張炭鉱の下請会社「H班」(社名Hは自らの姓)を興し社長夫婦となり、炭鉱作業員を斡旋する手配師業を行うようになっていた。1976年(昭和51年)には「H班」を「有限会社H興業」「有限会社H商事」とする一方で、Hは暴力団初代誠友会H組組長と称して金融業や水商売も手掛けた。だがHは暴力事件や覚せい剤所持、銃刀法違反などで有罪判決を受け、懲役刑に処され刑務所で服役するなどしており商売にならず、実際の会社経営は妻が取り仕切っていた。1977年(昭和52年)に会社は一旦倒産するも、間もなく妻は「有限会社K工業(Kは大夕張の字名)」や「H班」などを相次いで設立・再興し、女手一つで手配師業を続けていた。
そのような状況を一変させたのが、1981年(昭和56年)10月に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故である。この時も、服役中のHに代わって妻が会社を経営していたが、H班が現場に派遣していた作業員7人が事故で死亡し、作業員にかけられていた多額の死亡保険金が会社に振り込まれた。作業員の遺族に支払われた分を除いても、夫婦の手元に残った金は1億円以上に上ったという。思いがけず大金を入手した夫婦は、夫が刑務所から戻った後、夕張市南部青葉町の夕張川を望む地に白亜2階建ての自宅兼事務所を新築したり、子供たちにポニーを買い与えたりするほか、妻が経営するスナックの改装やアクセサリー店やダイエット食品店の開業資金、さらに高級車リンカーンを買いあさるなどの浪費を重ね、わずか2年足らずで保険金を使い果たしてしまった。もともと1970年代から閉山が相次いでいた夕張の炭鉱業が、新炭鉱での事故をきっかけに急速に衰退したこともあり、多額の借金を負った夫婦の生活は困窮した。そこで、夫婦は札幌で新たにデートクラブを開業しようと考え、そのための資金を得る目的で保険金詐欺の計画を立案するに至る。
事件の経緯
1984年(昭和59年)5月5日午後10時50分ごろ、夕張市鹿島栄町の炭鉱住宅街にあったH興業の作業員宿舎から出火し、宿舎内にいた子供2人を含む6人が焼死、消火活動をしていた消防士1人も宿舎の崩壊に巻き込まれて殉職する事態となった。また、火災の現場から逃げようとして2階から飛び降りた作業員のI(当時24歳)が両足骨折の重傷を負い、病院に搬送された。この他、作業員宿舎の隣にあった旧鹿島旅館の建物も全焼した。
夕張警察署と夕張市消防局の現場検証の結果、この日は作業員の入寮を祝う宴会が夜10時ごろまで行われており、その際のジンギスカン鍋に使った焼き肉プレートか石油ストーブの不始末が火災の原因と認定された。保険会社はこの認定に基づき、全焼した宿舎にかけられていた火災保険金および死亡した作業員4人にかけられていた死亡保険金の合計1億3,800万円をH興業の経営者であるH夫婦に支払った。これにより再び多額の保険金を得たH夫婦であったが、夫婦はこれらの保険金もわずか1か月ほどでほとんど使い果たしたという。
一方、火災から2ヵ月余が経過した同年7月18日、入院中だった作業員のIが突然病院から失踪。Iは翌7月19日に青森市から夕張警察署に電話をかけ、事件の真相を告白した。問題の火災は、H夫婦が火災および死亡保険金の詐取を目的として部下のIに指示して放火させたものであり、Iは前もってH夫婦から500万円の報酬を約束されていたが、肝心の報酬は75万円しか支払われず、またI自身もいずれH夫婦の手で口封じされるのではないかと恐れて警察に自首することを決めたという。また、IはH夫婦の指示に従って放火を実行したものの、保険金の対象外である子供2人だけは助けようとしたが救出は叶わず、I自身も逃げ遅れて重傷を負う結果となった旨を警察に語った。このIの自首によって、H夫婦はすぐに逮捕された。
なおこの夫婦は、1審死刑のあと、昭和天皇死亡による恩赦を期待して控訴を取り下げましたが、恩赦はなく、97年に死刑が執行されています。同日永山則夫氏の死刑も執行されました。戦後日本で、夫婦に死刑判決が確定して執行されたのはこの夫婦(日高夫婦)だけです。死刑確定中では、大牟田の殺人事件の一家4人死刑確定した人たちがいます。
この夫婦は暴力団で、まともな倫理や金銭感覚があるような人間ではないのでしょうが、それにしても
>合計1億3,800万円をH興業の経営者であるH夫婦に支払った。これにより再び多額の保険金を得たH夫婦であったが、夫婦はこれらの保険金もわずか1か月ほどでほとんど使い果たしたという。
というのはさすがにひどいですねえ。逮捕覚悟で散財したんですかね? 具体的にどのようなことに使ったのかというのがいまひとつわからないのですが、たぶん不動産投資とかをして使ったっていうんでもないでしょうしねえ。精神をそもそも病んでいるのだという話でしょうが、かかわりあいたくない人間です。
ほかにも、保険外交員の女を使って、彼女の夫を殺して莫大な保険金を受け取った人間などは、
>佐賀県鹿島市の古美術商外尾計夫(ほかおかずお)被告と元生命保険会社営業職員山口礼子被告は1991年暮れ頃、山口被告がホステスをしていたスナックで知り合い、その後肉体関係を持つようになっていた。外尾被告はギャンブルなどで数百万円の借金があった。山口被告は夫が複数の女性と付き合っていたことなどから愛情を失い、離婚話も出ていたが、子供は引き取るなどと言われていたため憎んでいた。
外尾被告と山口被告は1992年9月11日午前0時30分頃、佐賀県太良町の護岸において睡眠導入剤などで眠らせた山口被告の夫(当時38)を海に沈めて水死させた。そして、魚釣り中に護岸上から過って転落して死亡したと偽り、計2社から死亡保険金約9900万円をだまし取った。保険金は二人で折半した。
しかし、借金返済の残りを外尾被告はギャンブルで浪費し、1993年7月までに使い果たした。そこで山口被告が夫から相続した土地を次々と売ったが、いずれも外尾被告が浪費し、生活に困窮するようになった。
外尾被告は再び保険金殺人を計画。特に外尾被告に懐かなかった次男をターゲットにした。山口被告も当初は反対したが、説得を受け、外尾被告と別れるためにこれを最後にしようと決断。しかし山口被告が躊躇して計画は失敗した。そこで別の強盗事件を計画。山口被告がかつて家政婦として働いていた一人暮らしの女性を襲うことにした。
外尾被告と山口被告は1998年9月29日午後8時頃、鹿島市に住む知人女性(当時75)方に宅配便の配達を装って押し入り、現金約13万7000円やネックレス等6本(時価合計約120万円相当)及び普通預金通帳1冊を奪った。ただし暗証番号を聞き出すことができず、通帳から金を引き出せなかった。そのため金に困る状況は変わらず、保険金殺人を再び計画した。
1998年10月26日午後10時30分頃、山口被告の次男の高校生(当時16)に睡眠導入剤入りのカプセルを飲ませ、27日午前0時30分頃、長崎県小長井町の海岸で、海に放り投げて殺害、保険金3500万円を騙し取ろうとした。しかし保険会社が支払いを保留したため、受け取ることはできなかった。
他に外尾被告は1992同1月19日、頻繁に通っていた鹿島市内のパチンコ店己の景品交換所に押し入り、女性従業員から現金約190万円を奪った。
また山口被告は1999年2月15日、知り合いの男性のクレジットカードを使い、銀行のATMで現金20万円を騙し取った。また同じクレジットカードを用い、2月23日、ビデオカメラ等2点(価格合計17万8000円)を騙し取った。
という始末ですからねえ。お話にもなりません。なお外尾は死刑が確定(この記事の執筆段階では執行されていません)、女のほうは1審死刑でしたが、2審で減刑されています。彼女の子どもが減刑嘆願したそうですが、子どもたちも犯罪被害者遺族であり加害者遺族です。哀れにもほどがあります。
で、けっきょく人間というのは、一度に大金をもらうと、やはり精神が狂う人が一定の割合で出てくるのでしょうね。前に1億円を拾った人がいましたが、彼は非常に慎重な性格だったので、そういった悪い事態になることを防ぎました。宝くじも、高額の当選をした人には、注意書きみたいなものが配られるようですね。つまり危険だということです。
それにしても死刑になった人たちはさすがにそれなりに後悔はしたでしょうが、日景なんかはあんまり後悔とか反省もしなそうですよね。どうしようもない馬鹿でクズです。
ほかにも清原和博も莫大な額の金がどこかへいってしまったらしいし、同じく野球選手の中村紀洋も、かなり金に困っているという話もあります。NBAで莫大な契約金をもらった人間が一文無しになったり、ホイットニー・ヒューストンもまるで金がなかったらしい。こういう連中は本当に始末に負えません。いずれにせよ困ったものです。