以前このような記事を書きました。
情報(4月に渋谷で大島渚監督の特集上映があり、『少年』に主演した阿部哲夫さんもトークショーに登場する!!!)そのトークショーが4月3日土曜日にシネマヴェーラ渋谷で開催されました。私も幸い参加することができました。それでは記事をご紹介。
>大島渚監督の名作「少年」に出演した阿部哲夫さん、52年ぶりの公の場
2021年4月3日 17:37
大島渚監督の特集上映「オーシマ、モン・アムール」が4月3日、東京・シネマヴェーラ渋谷で始まった。初日となるこの日は、代表作のひとつとして知られる「少年」が上映され、子役として出演した阿部哲夫さんが52年ぶりに公の場に姿を見せた。阿部さんは、大島監督の次男でドキュメンタリー監督の大島新氏、聞き手を務めた映画評論家の樋口尚文氏とともにトークを繰り広げた。
同特集上映は、樋口氏が大島家、大島渚プロダクションの全面協力のもと膨大な量の資料を数カ月にわたって調査し、初めて紹介する資料群から大島監督の全貌に迫る「大島渚全映画秘蔵資料集成」(国書刊行会)の刊行を記念して開催されたもの。体調不良のため欠席となった大島監督の妻で女優の小山明子の代理で出席した大島新監督は、「『少年』が公開された1969年は、ちょうど私が生まれた年ですね。あの“少年”をお招きするというのは、ちょっとドキドキしています」と挨拶した。
拍手喝采で出迎えられた阿部さんは、「こんなに多くの方に見に来ていただいて、緊張がマックス」とニッコリ。高校時代に撮った自主映画を大島監督に激賞されて以来、大島家と交流を深めてきた樋口氏が、「小山さんに『阿部さんは今どうされているのでしょう?』とうかがったら、『年賀状が来ているわよ』と言われまして、それで連絡したんです」と明かす。
阿部さんは当時、養護施設で暮らしていたそうで「あの時、色々な養護施設が集まって文化祭をやったのですが、そこで『少年』の助監督だった小笠原清さんと知り合いました。そこからは、よく分からないうちに撮影が始まっていた」と述懐。実際にあった当たり屋一家事件をモデルにした今作では、全国縦断ロケを敢行。阿部さんは映画の封切り後に養子の申し出があったというが、それを断って施設に戻り、映画界とも縁を切っていた。なお、現在はライフプランナーとして活躍しているという。
大島新監督は「来る前、小山に『少年』について聞いたが、『本当に哲ちゃんに会いたいなあ』『あの撮影は役者人生の中で一番思い出に残る日々』と言っていた」と、母の思いを代弁した。さらに「撮影の年は、秋から約半年、両親がふたりきりになったのは1日しかなかったと言われています。私は、その日に仕込まれたに違いないと当時のスタッフに言われています」と自らの出生の秘密を披露して、笑いを誘った。
大島監督について聞かれた阿部さんは、「スタッフはいつも怒られていましたね。僕には優しくしてくれましたが、それは本心ではないでしょう」と当時の印象を語る。大島新監督も「家では割と甘い人ですが、やはり人を緊張させるんですね。私も家の中で緊張していましたから」と思いを馳せていた。
特集上映「オーシマ、モン・アムール」は、4月23日まで開催。「大島渚全映画秘蔵資料集成」は、4月に刊行予定。
もともと映画では母親役を演じた小山明子が参加するはずでしたが、ちょっと体調がよくないとのことで、大島渚監督の次男である大島新氏の参加となりました。上の記事でもありますように、新氏は、『少年』撮影時に仕込まれたという話が繰り返し話されていました(苦笑)。
上の紹介記事が、簡にして要を得ているので私からは若干の追補を。
阿部さんは、当時上にもあるように養護施設にいました。そして養護施設での合同文化祭で、阿部さんは女の子の役をやっていたそうです。そこで小笠原助監督に見いだされて、すぐ大島監督に連絡が入り、即決になったとのこと。メキシコ五輪が開催された1968年10月に撮影が始まり、5か月ほど撮影が続きました。宗谷岬での撮影は酷寒でひじょうに厳しく、まんじゅうを食べるシーンがありましたが、とても身体が温まるようなものではなかったといいます。特に映画のクライマックスである小樽での雪だるまを壊すシーンは、非常に寒くて、また雪だるまを作るのも大変であり、とても過酷な撮影だったとのことです。この映画では、さまざまなロケ地を訪れていますが、一番印象に残ったのが、北九州のロケで、その後阿部さんは北九州には行っていないとのこと。そしてこのシーンで地元の中学生とトラブルを起こしたり、不良の高校生が出てきますが、彼らは撮影以外ではとても優しい人たちで、また待ちをしていた喫茶店で色紙を阿部氏は頼まれ、これが後にも先にも唯一だったとか(笑)。それで、撮影時は夢中でそんなに記憶もないのですが、アオイスタジオで行われたポストプロダクション時のアフレコで、だいぶ記憶が定着したといいます。
阿部さんは、『少年』のプロモーションとして、「小川宏ショー」(?)に1度出演した、また中学生の時(1973年頃?)に、「あの人は今」みたいな企画で、映画で父親を演じた渡辺文雄と再開したら、「哲夫―!!!」と抱きついてきたとか。さらに、20歳くらい(1978年頃?)の時、「俳優もいいなあ」と考えて赤坂にある大島渚プロダクションにいって話をしたところ、TBSの昼の帯ドラマで準主役くらいの役を用意できると言われたので、あらためて考えたのですが、浮き沈みのある人生だから、ここはと考えてやめた、しかし周囲の人間は「もったいない」とみんないったとか。そうしたら、子役についての本を書いている樋口尚文氏が、「本にも書きましたように子役の人生は本当に大変ですから、阿部さんの選択は正しいと思う」と語っていました。私も正直そう思います。なおその本と関係する記事を私も書いています。
春田和秀さん(「砂の器」の子役をやった方)のインタビュー記事をご紹介それで阿部さんが、子役の道を進まなかったのは、彼が大の野球好きであり、子役をやっていたら野球ができないからそうしたとのことです。そんな年齢だったということなのでしょう。
それにしても60歳を過ぎた阿部さんの表情がとても穏やかなのは意外でした。映画での少年は、いつも非常に厳しい表情をしていました。あれはもちろん映画での話ですが、そして阿部さんも人には言えないいろいろな苦労をしているでしょうが、現在の阿部さんはなにはともあれよい人生を送られているようです。それは非常にいいことだと思います。半世紀を超える期間を過ぎていまさら表に出る気がしなくても仕方ありませんが、阿部さんとしてもやはり様々な想いとともに今回のイベントに参加されたはず。本当にうれしいことだと思います。この日の会場は満員でした。私以外の多くの観客の方々も、60を超えた阿部さんどうなっているのかなと心配だったり好奇心だったりいろいろな想いがあったでしょう。そして多くの観客が「今日は来て本当によかった」と思ったのではないか。私も実はこの日仕事が入ってしまい、ちょっとまずかったのですが、必死に調整をして、なんとか参加することができました。無理をしてでも参加したかったのですが、その判断は正しかったと思います。本当に、来てよかった。
そして阿部さんは、すでに雑誌のインタビューに答えておられますね。
>★レコメン日本映画SP
〈Chapter.1〉『戦場のメリークリスマス』4K修復版&俳優デイヴィッド・ボウイ
編集技師・大島ともよが語る『戦メリ』/大島渚とデイヴィッド・ボウイ/みんなの推しボウイ映画『/愛のコリーダ』も修復!
〈Chapter.2〉怒涛の日本映画インタビュー4連発!
『騙し絵の牙』監督&脚本コンビ吉田大八×楠野一郎『/裏アカ』で人間の赤裸々な衝動に迫る瀧内公美/主演作『裸の天使 赤い部屋』木下ほうか/大島渚監督作品『少年』の少年! 阿部哲夫『/ホムンクルス』/『奈落の翅』/新東宝シアターetc.
これは買わないわけにはいきません。手元にはまだありませんが、さっそくAmazonで購入しました。ほかにも大島関係の記事がありますので、これは購入するに限ります。なお写真で移っている黒い日の丸の写真は、映画のクレジットタイトルに使われたものとのこと。樋口氏が、大島監督の所蔵していた(「戦場のメリークリスマス」とある)箱から見つけたものとのことです。私の写真は、曇ってしまいあまりいい写真ではなくて申し訳なく思います。また上2枚の写真は、引用した記事より。