日本は翻訳大国だともいわれます。事実小説などでは、いろいろなヴァージョンの翻訳が発表されます。というわけで今回は、どのように翻訳が違うかというのを確認してみたいと思います。ついでに私の訳も添えてみます。
まずはアルベール・カミュの『異邦人』より。『異邦人』は、日本では新潮文庫などに収録されている窪田啓作訳、1965年に発表されている中村光夫訳があります。では有名な冒頭の原文を。
>Aujourd'hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. J'ai reçu un télégramme de l'asile : « Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués. » Cela ne veut rien dire. C'était peut-être hier.
窪田訳です。手元にある文庫より(p.13)。
>きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム。マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
中村訳です。こちらの本を典拠とします(p.7)。
>今日、ママが死んだ。それとも昨日か、僕は知らない。養老院から電報をもらった。『ハハウエシス」ソウシキアス」チョウイ ヲ ヒョウス』これでは何もわからない。たぶん昨日なのだろう。
拙訳です。
今日母が死んだ。あるいは昨日かもしれないが、定かでない。老人ホームから電報をもらった。「ハハウエシス ソウシキアス オキモチサツスル」これでは何もわからない。たぶん昨日だったのだろう。
次は第1章2の冒頭。
>En me réveillant, j'ai compris pourquoi mon patron avait l'air mécontent quand je lui ai demandé mes deux jours de congé : c'est aujourd'hui samedi. Je l'avais pour ainsi dire oublié, mais en me levant, cette idée m'est venue. Mon patron, tout naturellement, a pensé que j'aurais ainsi quatre jours de vacances avec mon dimanche et cela ne pouvait pas lui faire plaisir. Mais d'une part, ce n'est pas ma faute si on a enterré maman hier au lieu d'aujourd'hui et d'autre part, j'aurais eu mon samedi et mon dimanche de toute façon. Bien entendu, cela ne m'empêche pas de comprendre tout de même mon patron.
窪田訳(p.23)を。
>二日間の休暇を願い出ると主人が不機嫌な顔をしたわけを、目をさましたとき私は了解した。それはきょうが土曜だからだ。私はそのことを忘れていたのだが、起きたとき、それに思い到った。主人は、もちろん、私が日曜と合わせて四日間休みをとると考え、それで、面白くなかったのだ。しかし、一方では、ママンの埋葬をきょうにせず昨日にしたのは私のせいではないし、他方、どっちにしても、土曜、日曜は私のものだ。もちろん、そうだからといって、主人の気持ちがわからないではない。
中村訳(p.15)。
>眠りからさめて、僕はなぜ社長が二日間の休暇を要求されたとき不機嫌な顔をしたか理解した。今日は土曜日なのだ。僕はいわばそれを忘れていたが、起きたら、この考えが頭にうかんだ。社長は、当然、僕が日曜と合わせて四日の休暇を取ることになると考え、それが面白くなかったのだ。しかし第一ママを今日でなく昨日葬ったのは僕のせいでないし、また土曜と日曜はどう転んだって僕のものなのだ。勿論、だからといって、社長の気持ちも理解できないわけではないが。
拙訳。
起きたら、私が二日間の休暇を求めた際に雇い主がどうしていい顔をしなかったのかを理解した。今日が土曜日であるからで、いわば忘れていたが、起きたとき、そのことが頭にうかんだ。雇い主は、当然ながら、私が日曜日と合わせて四日間の休暇を取ると考えて、それで面白くなかったのだ。しかし一方では、今日でなく昨日母が埋葬されたのは私のせいではないし、いずれにしても土曜と日曜は私のものだ。もちろん彼の気持ちを理解しないわけでもない。
個人的な意見を言うと、中村訳のほうが現代的な訳文ですかね。第一人称が「僕」なのも、いかにも中村光夫です。ただ中村訳も1965年の発表なので、そろそろ新しい訳が出てもいい時代なのかもです。
それでは次は、英語の小説を。なんでもいいですが、実は私はアイルランド研究者なので(アイルランド研究で修士号をとりました)、せっかくなのでジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』を。これもいろいろな訳がありまして、題名も、Wikipediaから引用すれば、
永松定訳『ダブリンの人々』 金星堂、1933年 安藤一郎訳『ダブリン市井事』 弘文堂〈世界文庫〉(上下)、1941年 安藤一郎訳[3]『ダブリン市民』 新潮文庫、1953年、改版1971年、再改版2004年(71刷) 飯島淳秀訳『ダブリン人』 角川文庫、1958年 高松雄一訳『ダブリンの市民』 集英社、1999年/旧版は福武文庫、1987年 結城英雄訳『ダブリンの市民』 岩波文庫、2004年 米本義孝訳『ダブリンの人びと』 ちくま文庫、2008年 柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』 新潮文庫(新訳版)、2009年といったところで、いろいろあります。原題は、『Dubliners』です。個人的には、やはり『ダブリン市民』というのがいちばんいいのではないかという気がします。柳瀬訳の『ダブリナーズ』という題名は、訳者にはそれ相応の考えがあるのでしょうが、正直あまり感心しません。Wikipediaが『ダブリン市民』という項目名なのは、やはりこれが一番スタンダードな題名(安藤訳が、いちばん市場に出回っている(いた)から?)とみなされているということなんですかね。短編集ですからどの作品でもいいですが、今日は『Eveline』を。こちらから引用します。なおこの小説では、これは女性の名前ですが、同じ名前でいくつかの種類のスペルがあり、また男女両方にも使われる名前です。男性の有名どころでは、イヴリン・ウォー(Evelyn SWaugh)なんて人がいます。男性のつづりは「Evelyn」のようですが、女性では、「Evelyn」のほか「Evelyne」「Evelin」「Evelien」「Eveleen」など数種類あります。タイトルで使用された「Eveline」というのは、その中の1つというわけです。
最初は冒頭を。
>She sat at the window watching the evening invade the avenue. Her head was leaned against the window curtains and in her nostrils was the odour of dusty cretonne. She was tired.
高松雄一訳。出典は1999年の本。タイトルは「イーヴリン」。
>彼女は窓のそばに坐って、夕暮れが並木道に侵入してくるのをながめていた。窓のカーテンに頭をもたえて、鼻孔から埃っぽい更紗木綿の臭いを吸いこみながら、彼女は疲れていた。
安藤一郎訳。「エヴリン」。
>彼女は窓ぎわにすわって、夕闇が並木通りにひろがってくるのをながめていた。頭を窓のカーテンにもたせかけているので、鼻に埃っぽいクレトン更紗の匂いがした。彼女は疲れていた。
結城英雄訳。「イーヴリン」。
>彼女は窓際に腰を下ろし、夕暮れが並木通りに侵入してくるのをながめていた。頭をカーテンにもたせかけ、鼻孔には埃っぽいクレトン更紗のにおいがしている。彼女は疲れていた。
拙訳。私が題名をつけるのなら「イヴリン」。
彼女は窓のそばに座りながら、夕暮れが通りに広がっていくのをながめていた。窓のカーテンに頭を預け、ほこりっぽいクレトン生地の臭いが鼻にたちこめている。彼女は疲れていた。
こちらのくだりを。
>She had consented to go away, to leave her home. Was that wise? She tried to weigh each side of the question. In her home anyway she had shelter and food; she had those whom she had known all her life about her. Of course she had to work hard, both in the house and at business. What would they say of her in the Stores when they found out that she had run away with a fellow? Say she was a fool, perhaps; and her place would be filled up by advertisement. Miss Gavan would be glad. She had always had an edge on her, especially whenever there were people listening.
高松訳。
>彼女は家を捨てて出ていくことを承知したのだ。賢いやり方だったかしら。彼女は問題の両面を比べてみた。家にいれば、とにかく寝るところと食べものはある。昔から知っている人たちもまわりにいる。そりゃ家にいても勤めに出ても、あくせく働かなきゃならないけれど。男と駆け落ちしたことが知れたら、お店の人たちは何て言うかしら? 馬鹿な娘だって言うのよ、きっと。あたしのあとは広告を出して埋めてしまう。ミス・ギャヴァンは喜ぶに決まっているわ。いつも刺のある言い方をするから。とりわけほかの人たちが聞いているときには。
安藤訳。
>彼女はうちを捨てて出ていくことを承知してしまった。はたしてそれが利口かしら? 問題の表裏をくらべてみようと思った。うちにいればなんとか暮らしには困らないし、まわりに年来の知り合った人々がいるわけだ。もちろん、家でも勤め先でも、うんと働かなければならないが。もし彼女が男と出奔したことがわかったら、百貨店(引用者注:「おみせ」という振り仮名あり)の連中は自分のことをなんと言うだろう? たぶん、ばかというにきまっている。そして自分の位置も広告ですぐあとがまができるだろう。ギャバン女史も喜ぶだろう。ギャバン女史はいつも彼女につらく当たるから、ことに大勢が聞いているときには。
結城訳。
>彼女は出て行くこと、家をあとにすることを承知した。それは賢いことだろうか? 彼女は問題の両面を考えてみることにした。家にいればともかく住むところと食べる物はある。まわりには昔からの知り合いもいる。もちろん、家でも職場でも一生懸命働く必要はあるけれども。彼女が男と駆け落ちしたとわかったら、お店の人たちはなんと言うだろう? きっとわたしのことを馬鹿な娘だと言うだろう。そして、わたしの持ち場は広告を出して埋めてしまうだろう。ミス・ギャバンはきっと喜ぶわ。いつもわたしにつらくあたってきたもの、とりわけ人が聞いているときなどはいつだって。
拙訳。
彼女は家を出て去ることを同意した。それは利口だったのかな? 問題の両面を考えてみた。家だったらともかく居場所はあるし食べることはできる。彼女のことをずっと知っている連中もいる。もちろん家でも職場でもいっしょうけんめい働かなければいけないが。店の人たちは、彼女が男と逃げたことを知ったら何て言うだろうか? きっと馬鹿だと言うのだろう。持ち場は広告が出てすぐふさがっちゃうだろう。ミス・ギャヴァンは喜ぶだろうな。いつもつらく当たっていたし、とりわけほかの人が聞いている際には。
高松訳・拙訳はギャヴァン、安藤訳・結城訳はギャバンですが、題名は、高松・結城が「イーヴリン」、安藤が「エヴリン」と、タイトルでは「v」を「ヴ」で表記しています。私見では、ジョイスを読む人なら、たぶん「v」は「ヴ」で表記しないと満足しないと思います。また高松・安藤・結城お三方とも、原文では「彼女」として第三者的な文章なのに、一人称で訳していますね。私は、そのあたりは、代名詞を使わないで訳しました。ただ「ミス・ギャヴァン」以降は、一人称とも解釈できる文章ではあります。
また個人的な意見を書きますと、さすがに安藤訳はやや古さを感じますかね。高松訳と結城訳では、私としては高松訳の方が好きですが、これは好みの問題というのでご了承願います。
何の本でのあとがきだったか記録しませんでしたが、今年もノーベル文学賞を取れなかった村上春樹が、チャンドラーだったかの何かの本の訳者あとがきで、大要翻訳30年説みたいなことを書いていました。つまり翻訳というのも30年くらいで訳し直すべきではないかくらいのことが書かれていたのです。清水俊二氏の翻訳を念頭に置いた文章だったかと記憶しますが、定かでありません。私の知っている某女性は、チャンドラーに関しては、清水訳の方が、村上訳より雰囲気があって好きだといっていました。私は比べて読んだことはないので、どちらがいいか(好きか)は判断できません。
複数の翻訳の比較と自分の翻訳のご紹介、これは面白いので、またやろうかと思います。乞うご期待。ただし私が翻訳できる言語は英語とフランス語しかないので、英語とフランス語の本に限ります。たとえば『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳を比較しても面白そうです。ただこの本は英語が難しいので、私が拙訳を出すのは厳しいかな。ジョージ・オーウェルの『動物農場』あたりが無難かも。この本は、開高健や山形浩生といった人たちも翻訳を発表しています。