「井上一馬」といっても著述業をしている人と俳優がいまして、本日ご登場願うのは、前者です。題名を見ればわかりますね。
1956年生まれのエッセイスト、翻訳者であり、Wikipediaの「人物」には、
>1956年(昭和31年)、東京都生まれ。都立立川高校、東京外国語大学フランス語学科卒業。日本文藝家協会会員。
編集者として研究社に4年間勤務。その傍ら翻訳したボブ・グリーンのコラムがヒット。1984年に独立し[1]著述業に専念。はじめ米国のコラムなどを翻訳しつつ、エッセイ集、米国ポップカルチャー論などを刊行、のち英語の教科書を多く執筆する。小説も書く。
と、簡潔に紹介されています。いつものとおり、注釈の番号は削除します。
で、上にもありますように、彼はある時期から英語の勉強法の本を書くようになります。Wikipediaの著書・訳書の紹介によると、最初に記載されている訳書が1984年の出版、著書が91年の出版、最後の訳書が2008年12月、著書が2009年1月であり、理由は不明ですが、これ以降彼は単著あるいは訳書を世に出していませんね。なにかあったんですかね?
そのあたりの事情はともかく、ご当人の著作で、私がちょっと気になる記述を読んだ本がありました。こちらの本です。
基本的に私は、「究極の学習法」なんて宣伝文句は、「そんなもんあっか、馬鹿」としか思わない人間なので、別にそんな文句を信じたわけではもちろんないのですが、この本は、なぜだか覚えていませんが、手に取って読んでしまいました。図書館から借りたのです。
なおこの本は、文庫版もありますが、それらは当方目を通していませんので、これはあくまで新潮選書版での話であることをお断りしておきます。選書は3円、文庫は1円から売られており、レビューも必ずしもいいとは言えないようです。私の読んだ感想を書けば、そんなに画期的なこと、個性的なことが書かれているわけじゃないじゃんですが、これはこの際どうでもいい話。
なおこの記事の内容とはあまり関係ない話をさせていただきますと、私は、英国の文化は大好きですが(米国は必ずしも好きではない。ただ私が、学生時代いちばん傾倒した小説家は、アースキン・コールドウェル)、英国や米国の国家自体はそんなに好きというわけではない。反英米、反アングロ・サクソン、反パックス・アメリカーナ、反パックス・ブリタニカな人間です。
そういう点でいうと、井上は、大学が東京外大のフランス語学科なのに、たいへん米国に傾倒しているというのもよろしくないと思います。彼は、フランスより米国が好きな人間なのでしょう。まあべつにいいけどさ。
そんな話はともかく、彼の著作を見ていると、どうもこの本が彼の英語教科書執筆デビューのようです。たぶんこの本が当たって、他社からも話がきたのでしょう。そして事実上英語教育関係の書籍執筆に特化したのかと思います。これ以降は、英語関係の本の執筆がほとんどです。
で、私が引っかかったのは、こちらです。
彼は、p.89の「Coffee Break ❽」というところで、
>英語で教える話
と題して、日本における公教育で、
>英語を教科として教えるのではなく、将来的には、たとえば算数と社会を英語で教える方向にもっていくべきではないか、という意見です。
と書いています。
うんなもんできっこないじゃんという以上の話ではないと思いますが、ここは私の個人的な意見を書くところではないのでそれ以上突っ込まないとして、彼は次のようなことを書いています。
>何も私は机上の空論を主張しているわけではありません。実際に、ワシントンに住んでいる私のアメリカ人の知人の子供が、公立の小学校で、算数と社会の授業を日本語で受けているんです。だから日本だって、同じようなことができないはずがないのです。
最初に、引用中の
>ワシントン
て、たぶんワシントンD.C.のことですよね? さすがにワシントン州ではないとおもいますが、どうなのか。わかりませんけどね。
で、これ読んで私
「これほんと!?」
と思ったわけです。それ、いつどこの学校の何年生がどのような形式の授業で行われたのか。生徒はどういう構成なのか。生徒の保護者は、「もう少しまともな教育をしろ」と文句を言わなかったのか。校長は、どういう認識でいるのか。教員は何者か。生徒はその教育をきっちり理解できたのか。試験はどうやったのか。考えれば考えるほど不審なところばかりです。
この情報ネタも、井上の知人の子どもの話ですからねえ。どうもあいまいです。こんなの与太じゃねえかとまでは私も書きませんが、どうも怪しいなあです。
これ以上は考えてもさっぱりわからないのでやめますが、もうちょっとこういう話は具体的な情報を書いてくれないとねえです。これでは信用するに値しない。
それはそうと、上にも書いたように、井上は昨今これといった活動をしていないように思いますね。彼のサイトを拝見しても、あまりアクティヴには思えない。そんなに年老いた年齢でもないのに、50過ぎくらいで本を出さなくなったのはなぜなのか。いろいろ考えさせられます。さすがに何もしないでも食っていけるだけの経済力があるということも可能性は低いと思います。