今回は、本にのっとった記事ですが、「書評」タグでなく「スポーツ」にします。もっとも「社会時評」でもいいかもしれません。
父親が筋萎縮性側索硬化症(ALS)で死亡したので、ALSについてはいろいろ興味関心があります。もっとも父が発病する前から、テレビのドキュメンタリーを見たり本も数冊読んでいたのでそれ以前からそれなりの知識はありましたが、やはり親がその病気で死亡したとなると関心の度合いは強くなります。
それで、PL学園出身で春夏の全国制覇を成し遂げた元高校球児(その後大学・社会人野球でも活躍)がALSを発病して闘病生活を送っているということは知っていました。そして、つい最近、その方が今年の10月に亡くなったことを知りました。
(2015年10月9日) 【中日新聞】【夕刊】【その他】1987年に甲子園の春夏連覇を成し遂げたPL学園高校の正捕手で、社会人野球を引退後に難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)となり闘病中だった名古屋市千種区の伊藤敬司さんが8日、46歳で亡くなった。少年時代から一緒にボールを追いかけ、闘病中も交流を続けた元中日ドラゴンズの立浪和義さん(46)は「野球への情熱がすごかった。彼の遺志を継いで、難病と闘う人を勇気づける取り組みをしていきたい」と冥福を祈った。 (細井卓也)
伊藤さんは兵庫県西宮市生まれ。PL学園当時、立浪さんや、大洋・横浜(現DeNA)で活躍した野村弘樹さんや橋本清さん(巨人など)、片岡篤史さん(阪神など)らとともに甲子園で活躍。卒業後も青山学院大、社会人野球のJR東海でプレーし、野球一筋の人生を歩んだ。社会人野球を引退した後は、JR東海のグループ会社でビル管理の仕事に励んだが、38歳の時にALSを発症し、5年前から自宅療養を続けていた。
今年4月には、フリーライター矢崎良一さんとの共著で、自らの野球人生を振り返る「PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って」(講談社刊)を出版。野球で培った忍耐力や、闘病中の心の葛藤などを率直につづった。7月の本紙の取材に「(本の出版は)生きた証し」と語っていた。
伊藤さんは闘病中、眼球を動かして文字盤に視線を送り意思を伝えていた。自身を介護する妻桂子さん(46)やヘルパーの負担を思いやる一方で、「難病患者を介護できる介護者が少なすぎて、介護事業所の超売り手市場の構造ができてしまっている」と重度訪問介護の課題も投げ掛けた。
桂子さんによると、伊藤さんは9月、呼吸に伴う苦しさの緩和のため、自宅から名古屋大病院に移っていたという。入院前、伊藤さんのブログ「必死のパッチ〜難病パパの日記〜」には、「金曜日から入院します。それを見越して娘が歌をプレゼントしてくれました。立派に育ててくれて嫁さんありがとう。どれ位入院するかわかりません。恐らく日記もかけなくなると思います。(中略)皆さん本当にありがとうございます」と記されていた。亡くなる直前はヘルパーに足をマッサージされ、気持ちよさそうな表情を浮かべていたという。
桂子さんは9日、亡きがらを前に「難病のALSとなったことは残念だったが、野球を通じて多くの方と関わることができて本人は幸せだったと思う」と話した。
通夜は9日午後7時から、葬儀は10日正午から、名古屋市千種区田代本通1の8、ティア覚王山で。喪主は妻桂子(けいこ)さん。
筋萎縮性側索硬化症(ALS) 筋肉を動かす神経が侵され、全身の筋肉が動かなくなる厚生労働省の指定難病。国内の患者数は昨年3月末時点で約9200人。詳しい原因は分かっておらず、有効な治療法は確立されていない。
伊藤敬司氏は、1969年生まれで、PL学園に1985年に入学して88年に卒業します。桑田真澄と清原和博が2年上、同級生に立浪和義、片岡篤史、野村弘樹、橋本清、1年下に宮本慎也と、まさに綺羅星のようなすごい時代の在籍だったわけです。氏自身は、プロ野球への道はかなわなかったものの、青山学院大学を卒業後30代なかばまで、JR東海で選手、コーチをします。つまり氏は、ほとんど野球のセミプロみたいな人だったと考えられます。それで上の記事にある本をさっそく入手して読んでみました。共著になっていますが、記述のほとんどは、フリーライターの矢崎良一さんによる執筆です。
氏のALS発病後の苦悩や闘病についても非常に興味深いのですが、本日はそれについてでなく、伊藤氏がこうむった災難の話をご紹介します。氏がPL学園1年生だった時の85年の話です。
実は、伊藤氏の父親が、巨人のスカウトだったわけです。それで、決して中学時代抜群の実績や能力があったわけでない伊藤氏は、父親の勧めでPL学園に入学します。自分にPLは分不相応だと思っていた伊藤氏は戸惑いますが、しかしPL学園でプレーできるのは、まさに高校最高峰のレベルで野球ができることですから、入学をします。
それで85年のドラフト会議で、早稲田大学進学を表明していた桑田が巨人に指名され、巨人入団を熱望していた清原は西武ライオンズに指名されます。それで激高した清原は、授業中の伊藤氏のもとへ押しかけます。
>突然、ドーンという音とともに、いきなり教室の後ろのドアが壊れんばかりの勢いで開いた。そして、教室中に凄まじい怒声が響いた。
「おい、伊藤!」
教室内には1年生の野球部員も何人かいたが、一瞬にして全員が凍りついた。
「どないなっとんねん。巨人、桑田やんけ。なんで俺とちゃうねん」(p.96)
そんなこと言われたってねえ、伊藤氏だって、困りますよね。困るにもほどがあるというものです。
この85年のドラフトについては、いろいろ物議をよびましたが、だからといって伊藤氏はなんの関係もないしねえ。伊藤氏の父親は、当然この件に深く関与していたわけでしょうが、それにしてもです。なお、この本によると、その後伊藤氏は清原と言葉を交わす機会すらなかったとのこと。
それだけでも大変ですが、この後伊藤氏に関して、マスコミはかなりひどい報道をします。
>敬司自身も登下校の時などに報道陣からマイクを向けられたり、容赦なくカメラのフラッシュを浴びせられたりした。そして、ドラフト以降に発売された週刊誌には心ない誹謗中傷記事が掲載された。
多くは「(父が)実力もないのに自分の息子を入学させ、PLの父兄となって桑田家に接近し、密約を工作した」といった内容のものだった。(p.98)
という報道がされたわけです。
これはひどいですね。といいますか、正直世間がそう考えるのは(PL学園の1年生に、巨人のスカウトの子どもがいるということを知っていれば)仕方ないとは思います。しかしそれをマスコミで報道されちゃうと、これは完全な報道被害ですね。だって当時の伊藤氏は16歳の未成年で、PL学園の寮に住んでいるような立場です。当たり前ですが、反論すらできない。そのような能力もないでしょうし、能力があったって、まさかテレビなどのインタビューで「自分は関係ない」とも言えないじゃないですか。だいたい親の関係でPL学園に入ったかどうかなんて、反論のしようもありません。実際のところどうかなんて本人だって最終的にはわかりはしない。「そうでない」なんて本人が主張したって仕方ないし、学校側などが仮に「そんなことはない」なんてコメントをしたところで、それ以外のことを言ってくれるわけでもないのだからお話にもならない。
もちろん未成年でなく、それなりに反論能力がある人にだって、こんな報道すべきでありませんが、伊藤氏の父親がそれなりに批判されるのはともかく、伊藤氏のような立場の人にこのような報道をするというのはまさに最低最悪ですね。されてしまってはどうにもなりません。ましてや1985年では全く泣き寝入りというか我慢するしかないわけです。
しかしマスコミの報道もひどいですが、伊藤氏をどれくらいPL学園その他は守ってくれたのかなという気はします。それなりに守ってくれたんでしょうが、彼は野球部員なのだから逃げも隠れもできません。逃げるときは、野球部を退部→高校退学です。
それにしても仮に伊藤氏が野球部を去ったとしても、それを「弱い」とはいえませんね。当たり前ですけど。彼は強い人間でしたから野球部に残りましたけど、それができなくったって当然だと思います。理不尽な目にあったのですから。そのような事態にならず、それなりに野球をやれるだけやれたのは、本当によかったと思います。
それで伊藤氏の父親は、伊藤氏が亡くなる2か月弱前にお亡くなりになっています。伊藤氏は、自分の父親の死を知った後にお亡くなりになったわけです。
伊藤氏にとって父親というのは明らかに憎しみの対象でもあったわけで、その死に対しては、愛情だけでは語れない複雑なものもあったでしょう。そしてたぶん父親の方も内心さすがに心が痛むものはあったかと思います。
最後に伊藤敬司さんと伊藤菊雄さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。